「ウマ娘 プリティーダービー」の感想など

ウマ娘 プリティーダービー」というアニメを見たので、少し間が空いてしまったが感想などを書き残しておこうと思う。

本作は1期と2期があるが、個人的には2期の方がより面白かったように思う。1期は主人公としてスペシャルウィークが北海道から上京して成長する物語を描いていて、もちろん主人公の成長というのは王道の展開ではあるのだけれど、どことなく「ポテンシャルのあるキャラクターが適切な指導を受けて才能を開花させる」という言ってしまえば当たり前のストーリーになってしまったように感じた。その点、2期はトウカイテイオーを主人公にして、メジロマックイーンを、同じチームでありながらライバルとして描くことで、ストーリーに深みが増していた。

また、1期と2期の違いとして、主人公が経験する挫折をどう描くかというところがあるように思う。2期でも主人公であるトウカイテイオーは挫折を経験するが、作中を通じてこの挫折を丁寧に(しつこいくらいに)描いている。トウカイテイオースペシャルウィークのようにポテンシャルのあるキャラクターなので、物語の大筋としてはやはり同じ形式にはなるが、挫折をしっかりと描いたうえで、周囲の助けも借りながらそれを乗り越え、最後には1年という長期のブランクを経ても勝利を掴む姿を描くことで、単なる成長ストーリー以上の物語を描いている。

もちろん、2期では「チームスピカ」の他に「チームカノープス」に所属するキャラクターを登場させていること、より具体的にはツインターボを登場させていることも大きい。

度重なる怪我で闘志も消えかけて事実上の引退を考えていたトウカイテイオーに対し、周囲は今までのように励ますことができずにいた一方、ツインターボはただ一人トウカイテイオーの引退を受け入れようとしなかった。トウカイテイオーと勝負したいから引退してほしくないという気持ちを直接ぶつけ、チームのメンバーに泣きつく。

ツインターボは作中では子供っぽく、レースでは複雑な戦略は考えずに大逃げするが、終盤でスタミナが切れてしまいなかなか結果を残せないキャラクターとして描かれている。そんなツインターボが(だからこそ)、トウカイテイオーを勇気づけようと、強敵もいるレースで大逃げで劇的な勝利を見せる。トウカイテイオーにしてみれば、実力から考えて取るに足らないのに一方的に絡んでくるキャラクターとして描かれていたツインターボだったが、トウカイテイオー自身が無理といったことを実現し、諦めなければ不可能に思えることでも実現できることもあるということを自らのレースで示した。

かつてシンボリルドルフに夢を見ていた自分の姿をキタサンブラックと重ね、メジロマックイーンの「奇跡を望み奮起する者には実際に奇跡が起きる」という言葉に背中を押されたトウカイテイオーはテイオーコールの中でもう一度走ることを決意したのだった。

ここまででも物語としては十分に完成度が高く、あとはレースで勝利するシーンさえ描けば終わりにすることもできるが、ストーリーはここで終わらず、今度はメジロマックイーンが怪我をして走れなくなってしまったことが明らかになる。

走りたくても走れない、かつての自分と同じような境遇にいるメジロマックイーンに対し、今度は自分が言われた言葉を返すように「奇跡を起こして見せる」と勇気づける。かつて、シンボリルドルフという夢を追いかける側だったトウカイテイオーが、今度はキタサンブラックというかつての自分の、チームスピカの、ファンたちの、そしてメジロマックイーンというライバルの夢を背負って走ることになったのだ。レースで勝利できるのが成長した証であるのは間違いないが、これでようやくトウカイテイオーメジロマックイーンが競い合う土俵が整い、お互いに実力が拮抗しただけの存在から、共に競い合い支え合う、好敵手という言葉がぴったりな存在になれたのかもしれない。

 

 

 

 

 

そんなトウカイテイオーに心を動かされたのは人生が予後不良ことゼンラチュウネン号(自称牡馬・43歳)。

「ハミチン♪ハミチン♪ハミチ〜ン」

ご機嫌なメロディと共に、日曜午後の多摩川の河川敷を闊歩する。

だが、放馬して人に被害が出ればただではすまない。逃げ出した馬を捕まえるべく、すぐに周囲の人間が動く。通行人から「全裸で目出し帽だけ着けた男が意味不明な言動をしながら歩いている」との通報を受けて警官が駆けつける。

警官の「ヒトムスコに需要はない」「ハミチンじゃなくてモロダシじゃないか」との指摘に、男は「股間のポニーがブラリアンしているだけ」「先にウマのエロをファンティアとかファンボで限定公開してる絵師どもを捕まえたらどうだ」などと抵抗。警官としては出るとこが出てる以上、ひとまず公然わいせつの現行犯で逮捕しようと目出し帽を脱がせるが、外れた途端に物音に驚いた男が激しく抵抗。逆立ちするようにして脚で警官を蹴り飛ばし、古馬とは思えない驚異的な逃げ脚を見せて逃走する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

走るゼンラチュウネン号の脳裏に、子供の頃の記憶が蘇る。

1983年11月13日。母が用事で家を空けた日に、父から出かけないかと言われて電車に乗った。はぐれないようにと父の手をしっかり握って、淀駅から人波に揉まれながら歩いた先は、京都競馬場だった。

歩き疲れたからと肩車をしてもらい、どっしりとした父の肩の上から、芝の生えたコースを眺める。ファンファーレのトランペットが秋の空に高らかに響き、レースが始まる。色とりどりの勝負服に身を包んだ騎手と馬は、最初は点の集合だったが、スタンド前に近づくにつれて加速しているように見えた。激しく芝を蹴って走る馬と鞍上で涼しげに姿勢をキープする騎手が一体となって、あっという間に通り過ぎていく。ふと、ある馬が一つ、また一つと順位を上げているのが見えた。その馬を先頭に、彼らが再びスタンドを目指して走ってくる。騎手たちが鞭を入れ、父の叫び声が振動となって肩から伝わってくる。これほど短い時間の間にこれほど人が熱狂することがあるのかと、訳もわからずに父の肩の上から見ていた。

帰り道、再び父の手を握って歩いていると、父がぽつりと呟いた。

「今日一番になった馬は、やっちゃいけないと言われていることをやって勝ったんだ。」

その時の父は続けて色々と説明してくれたはずだが、当時の私にはよく分からず、この言葉だけが記憶に残っている。 だが、今なら父の言葉の意味がはっきりと分かる。頭の中に、かつてどこかで聞いたフレーズが浮かんでくる。

 

 

 

 

 

 83年、菊花賞

その馬は、タブーを犯した。

最後方から、上りで一気に先頭に出る。

 

 

 

 

 

そうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

タブーは 人が作るものに すぎない。

*1

 

 

 

 ゼンラチュウネンが、ひときわ強く芝を蹴った。

 

 

 

以上

 

 

*1:JRA CM『The WINNER』シリーズ(2012)より。いいCMだと思う。

www.youtube.com

今数えてみたらこれ以外に27本書いていて、毎週1本のペースだったのでまあ半年以上書いてきたことになるが、書けなくなってきてたし研究も忙しくなりそうなので、少なくとも定期的に書くのはやめることにした。

実は下書きに未完成のやつも何本かあるにはあり、気が向いたら加筆して公開するかもしれないししないかもしれない。(多分しない)

思い返せば全裸中年男性のことばかり書いていたように思われるが、最初はマクドナルドにいた子供のいじらしさに心を動かされたから書いていたらしく、少し驚いた。

収穫は数千字程度の日本語の文章の分量の感覚がなんとなく掴めるようになったこと、校正の重要さを理解したこと(これは本当に大事で、誤字脱字に限らず、書き終わって読み返すと意外と直すところが多かった)くらいかもしれない。

 ただ、書きたい文章を書く楽しさとか、こういう文章を書こうと考えながら電車に乗っている時の心の躍動する感覚を味わえたのは良かったし、実験レポートばかり書いていた期間の良い気分転換になったともいえる。

 

最後になってしまうが、読んでくれた人に感謝したい。

 

以上

金と玉

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いらすとやより


タイトルだけで下ネタと思った人は反省してほしい。このタイトルはキンタマでも金玉でも金の玉でもなく、「金と玉」だ。

東京大学の五神真総長は平成28年度の学部入学式における総長式辞で、次のように述べられている。

ところで、皆さんは毎日、新聞を読みますか? 新聞よりもインターネットやテレビでニュースに触れることが多いのではないでしょうか。ヘッドラインだけでなく、記事の本文もきちんと読む習慣を身に着けるべきです。

(『平成28年度東京大学学部入学式 総長式辞』より) 

 五神総長は間もなくその任期を終えられるが、キャッチーな見出しだけでアクセス数を稼ぐような記事やフェイクニュースが蔓延するこの時代、今一度この言葉を思い返してもよいのではないだろうか。

 

さて、金と玉といえば、もちろん将棋の話である。昨今の将棋AIの進展は目覚ましく、計算能力の発達とアルゴリズムの改良により、プロ棋士との対局に勝利するのも珍しいことではなくなってきた。既にチェスでは人間と肩を並べる程度にはコンピュータも進化しているとされているが、これからは将棋AIもさらに発展していくのだろう。

また、このところ将棋人口は減少が続いているが、最近は羽生善治九段や藤井聡太二冠などのプロ棋士もメディアに多く露出し、話題になっている。コロナ禍で在宅の時間が増えたことも、結果としては人気を後押しできるかもしれない。将棋界の今後にも要注目だ。

 

先日の対局でも、藤井聡太二冠が「神の一手」とも呼ばれるほどの妙手で戦局を一気に引き寄せて勝利を掴んだ。

news.yahoo.co.jp


【41銀】竜王戦で出た神の一手を解説します【藤井聡太vs松尾歩】

なるほど確かに、この局面で飛車を取らずに(タダで)銀を献上するのは一見して悪手のようだが、その実見事に勝利への突破口となっている。まさに妙手と呼ぶに値する一手だろう。今後のさらなる活躍に注目だ。

 

 

 

 

 

そんな藤井聡太二冠に注目しているのは、最近腹の段位だけは昇段できそうな異常独身中年男性。

「藤井の活躍とコロナ禍での在宅時間の増加を踏まえれば次に来るのは将棋」

と、もうすぐ四段になれそうな腹をピシャリと叩いて向かった先は近所の公園。まずは足元からと、ある秘策とともに、平日の昼間から指している老人たちに早速対局を申し込んだ。

双方20枚の駒を並べていざ対局が始まろうとしたその時、彼が盤から金を取り除く。駒落ち自体はハンデとしては一般的だが、金を落とすのは聞いたことがない。一体どういう意図なのか。すると、突然彼はズボンのファスナーを下ろし、手を突っ込んで何かをまさぐったかと思うと、自らの金を並べたではないか。

これこそが、彼の秘策であった。最近では見かけなくなったが、かつての将棋では盤外戦も戦術のうちという風潮の時代があった。現代では卑怯と言われようと、盤外戦も最大限に活用しようというわけである。

彼の脳裏に中学校での日々が蘇る。所属していた部活は将棋部。級友と毎週月・水・金曜日の放課後に対局していた。あの頃は、くだらないことでも思い切り笑うことができた。

ある日、部員が自らの股間にセロハンテープで金と玉を2枚ずつ貼り付けたのを見て、顎が痛くなるまで笑い、直後に部室を見に来た顧問に見つかった。連帯責任で翌週は活動禁止になり、貼り付けていた本人は1ヶ月活動禁止になった。

「今一度、原点に戻ろう。」

彼は考える。

金と玉は実際の盤面でも隣り合っている。だから、金2枚と玉を金玉金と貼り付けるだけなら、あの時部室に来た顧問に盤面を再現しているだけということもできた。同じように考えれば、盤面に自身の金を並べても駒を並べているだけと言い張ることも可能だ。対局中に金玉を出してはいけないというルールもない。幸い、盤の大きさも駒のサイズに合っている。これを活かさない手はなかった。

果たして彼の盤外戦術は、ある程度有効であった。駒と盤の立てるパチパチという音に混じって金が動く度にペチャリという音が鳴るのは確かに相手の集中を削いだし、駒から毛が生えていて時々うねるために、金を玉のそばに置いておけば深層心理で相手は近くに駒を進めることを躊躇ってしまう。加えて、相手の目の前で中腰になるためにやや見下ろす形になり、威圧感も与えられる。必然、防戦気味になる相手に、序盤、中盤と果敢に攻める。駒たちが躍動し、金は脈動していた。

しかし、そもそもこの戦法がプロでも通用するなら、ルールでも禁止されていない以上は盤外戦術全盛期には対局中に金玉を出す棋士がいてもおかしくないはずだ。にもかかわらず、公式戦ではそのような棋士は存在しない。この戦法にはある弱点があったのだ。

終盤、彼の額に汗が滲む。長時間の中腰に足腰が悲鳴を上げ始めると快進撃もここまで。足腰の辛さに勝ち筋を見逃すミスが相次ぎ、それが対局を引き伸ばしてしまう悪循環。最後は我慢できずに一旦腰を上げてしまったところ、これが二手指しとの判定で反則負けに。通行人からの通報で駆けつけた警官に「金で玉を囲っていただけ」「金と玉でキンタマを考えない方がおかしい」と弁明するも、警官は「金銀3枚が囲いの基本だぞ」「相手が金を取ったら文字通り致命的なダメな戦法」とこれを一刀両断。策士策に溺れる結果となった。

 

以上

春の雨に思うこと

朝の寒さにコートを着て外に出ても、昼の陽気にシャツ一枚でも少しだけ汗ばむことも増えてきた。桜はいよいよ盛りを迎える頃だ。春の嵐で散っていないことを願うばかりである。

 

 前日の夜遅くから降り始めた雨は、夜になっても中々弱まる気配を見せなかった。

昔から雨は好きではないが、雨の中を歩くのは傘に当たる雨の音が聞けて嫌いではないから、御徒町まで足を伸ばすことにした。夜の不忍池は人通りもなく、街灯が照らす水溜りに波紋がいくつも広がっていた。

ふと、向こうから誰かが歩いてくるのが見えた。スーツに傘を差し、今となってはやや古臭い中折れ帽をかぶっている。離れている時は酒にでも酔ったのか、何か言いながら奇妙な動きをしているだけのように見えたが、近づくにつれて彼の言葉はリズムを持って聞こえてきた。まだ雨は降り続いているのに、まるで雨上がりの空を見上げるように傘を傾けて手を広げ、そのまま傘を畳む。

一瞬、どうやってやり過ごすべきか考えたが、この手の人間はこちらが刺激しなければ案外無害なものだ。私は黙ってそのまますれ違うことにして、傘で少し顔を隠すようにして歩みを速めた。一歩ずつ、着実に近づいていく彼との距離。近づくにつれて、彼の動きは奇妙ではあるが決して不規則ではなく、歌のリズムに見事にマッチしているということがわかってきた。

ところで、不忍池のほとりには、3段ほど高くなったウッドデッキがある。ベンチもあり、昼間はここから池を眺めていると、たかが3段といっても中々いい眺めである。今、前からステップを刻みながら歩いてくる男は朝の日差しを浴びるように全身で雨を浴びている。このペースで行けば、ちょうどこの先のウッドデッキの前でそのまますれ違うことになるだろう。

この予想は、実のところ半分だけ正解だった。確かに私たちのペースは変わらず、ウッドデッキの前に同時にたどり着いた。だが、そのまますれ違うことはなかった。彼がやにわにデッキに上り、そのまま踊り始めたからだ。完全に想定外の動きに、私は思わず足を止めてしまった。

彼のステップに合わせて、雨で濡れたウッドデッキはこもった音を響かせる。ただ地面を照らしていただけの街灯は、今や舞台を照らすスポットライトだった。私はあまりにも楽しそうな彼の様子に足を動かせずにいた。

おもむろに上着に手が伸び、ワイシャツに手が伸び、さらに、ベンチを器用に使って全体の流れを損なうことなくズボンも脱いでいく。歌とダンスはともかく、あっという間にパンツだけになったその手際は、ただただ見事と言うしかなかった。

「これから、どちらへ行かれるのですか。」

彼がひとしきり歌い終えてから尋ねると、彼は変わらず楽しくて仕方がないといった笑顔で一言、交番、とだけ残してまた歩き出した。

しばらく呆気にとられていたが、せめて脱ぎ捨てられた服と傘は届けようと思い彼の上着を拾い上げた。ポケットには何も入っていないのか、かなり軽い。そのまま軽く畳もうとすると、ポケットから一枚のメモが舞い落ちた。メモには、

「野に出でゝ写生する春となりにけり」

と子規の句が一句だけ書かれていた。予報では、雨は間もなく上がることになっていた。私は服の上に傘を開いて置いてやり、御徒町まで歩き始めた。

 

以上

桜の開花に思うこと

桜の花はしばしば大学入試の合否を表す際にも使われ、「桜咲く」といえば合格、「桜散る」といえば不合格を表す。最近は桜の開花が入学式の時期から卒業式の時期に早まってしまったと嘆く声を聞くこともあるが、この使い方からすればむしろちょうどいい時期ともいえるのかもしれない。

冬の寒さに備えて葉を落とした木々は未だ葉をつけず、時々吹く風に思わずコートのボタンを閉めるが、同時に日なたには柔らかな日差しが降り注ぎ、冬を乗り越えた桜の花が開き始める。上野公園でも、一株だけ開花した桜の木の周りに多くの人が集まり、カメラを向けていた。

桜の花が象徴するのが入学式でも卒業式でも、桜とともに今までの生活が終わり、新しい生活が始まる。

コロナ禍で失われたものは多かったが、一人の学生にしてみれば恩恵もまたゼロではなかった。最たるものはオンライン授業であろう。自宅で授業を受けることができ、しかも録画を後から見返せる。加えて授業中でも質問をしやすい。おかげで勉強はなんとかついていくことができた。

そしてもう一つは、キャンパスが静かになったことだ。大学は本来開かれた場所であるべきだという主張とは相反するところがあるかもしれないが、やはり観光客がほとんどいないキャンパスは静かで過ごしやすいし、座学の授業は原則オンラインだったので学生も少なく、食堂で空席を探して歩き回る必要もない。この点は実習で大学に来る理系に進んでいてよかったといえるだろう。

人が少ないと、キャンパスをあちこち歩き回ってみたくなるものである。キャンパスの建物はもちろん基本的には同じ学部・学科の建物どうしが集まっていて、単に授業を受けに来るだけだとどうしても門と特定の建物の往復だけになりがちであるが、実際に歩き回ってみると新しい発見もあるし、思わぬところで道がつながっていることもあり、頭の中でキャンパスの地図が進化していくのはなかなか楽しい。

中でも特に気に入ってるのは、やはりというべきだろうか、三四郎池だ。池の端にひっそりと置かれているベンチに腰掛けて、静かに水面を見つめていると、それだけで思考が研ぎ澄まされていく気がする。(もちろん気がするだけで、実際にはそんなことはない。)

それから、この木と水の感じ(エフェクト)がね。―たいしたものじゃないが、なにしろ東京のまん中にあるんだから―静かでしょう。こういう所でないと学問をやるにはいけませんね。近ごろは東京があまりやかましくなりすぎて困る・・・(夏目漱石三四郎』より )

 水面に映る木々も良いが、時々吹く風にさざ波が白く光るのもまた良い。しばらくそうしていると、ぼんやりとした考えが頭に浮かんでくる。

 

そういえばと、啓蟄はちょうど今ぐらいの時期だったことを思い出した。春になると変質者が出るようになるという話を聞くに、冬の間私たちが何気なく踏みしめていた土の下には、リスかモモンガのように全裸中年男性が静かに冬眠をしていたのかもしれない。人気のない夜、突如土が盛り上がり、中から出てきた全裸中年男性は、まだ水の冷たい三四郎池で沐浴をして土を落とし、春の訪れとともに夜の街に消えていくのだろう。

 

 

以上

とらドラ!の感想など2

前回

comb.hatenablog.jp

少しだけ書き残していたことがあるので書いておく。

あだ名と自己評価について

逢坂は高校では「手乗りタイガー」というあだ名で広く知られている。これは逢坂の体格と粗暴さ、また逢坂の名をもじってつけられたもので、確かに逢坂の体格は少なくとも豊かとまではいえない。また、逢坂は当時北村に思いを寄せていたが、誤って北村に宛てた手紙が高須に渡ったことに気づいた。この事実を知った逢坂は本作の序盤で深夜に木刀を持って高須の住居に侵入し、これを発見した高須に対し持参した木刀を突き付け、さらに高須の住居の壁に木刀を突き立てて穴を空けている。これらの点を考慮すれば、「手乗りタイガー」というあだ名は逢坂の特徴をよく表したものといえる。

一方で、逢坂本人は「手乗りタイガー」というあだ名に対してコンプレックスを抱いている。これは一つには体格が劣っていることによるものであるが、逢坂本人は自身を不器用であると認識していて、「タイガー」というあだ名から想起されるイメージにはそぐわないことも理由である。後者の理由については、作中でも気にしつつもなかなか表に出すことができないでいることが、逢坂の口から明かされている。

つまり、逢坂は「手乗りタイガー」というあだ名に対し劣等感を抱き、また自身の本来の姿と乖離している面もあるが、この状態を解消することができずに「手乗りタイガー」という他者からの評価に甘んじ、これにふさわしい言動をしようとしている。周囲が自分に何らかの振る舞いを求め、自分がそれに応えるというのは「キャラ」のようによくある話ではあるが、他者の自身に対する評価を自分自身の自身に対する評価と明確に区別することができずにコンプレックスを抱えているという点では、逢坂は自己評価についても他者に依存しているといえる。

逢坂が転校した理由について

この問題を解決しようとしたとき、逢坂自身が(高須の通う)高校で何らかの行動を起こすのはあまり良い結果をもたらさない可能性がある。逢坂は「手乗りタイガー」という周囲からの評価に適合するように行動しているため、何らかの行動を起こしたところでそれが周囲からの粗暴な印象を強化するだけに終わる可能性もあるからだ。

結局、逢坂の側で他者からの評価と自己評価を明確に区別し、「手乗りタイガー」という評価を他者が自分に求めるキャラとして受け入れるのが現実的な選択肢となる。しかし、自己評価を他人からの評価と区別することができていない状態ではこれは難しい。一度「手乗りタイガー」という他者からの評価を受けることのない環境に移ることで、この評価はあくまでも他者からの評価であることを認識する必要がある。その手段が転校だったと考えることもできるかもしれない。

逢坂の成長について

人間の成長は即自→対他→対自という過程を経るという話がある。子供は他者との関わりの中で自分が他者と異なることを理解し、さらに成長することで自分をいわば俯瞰して見ることができるようになるということと理解しているが、*1この理解に基づくと逢坂は対他から対自への移行に問題を抱えていると見ることもできる。この問題点は、終盤に逢坂の周囲の人間が少々強引に逢坂を自分の気持ちに向き合わせることで解決するが、こうして対自の状態になれたことで自己評価を他者からの評価と区別することができるようになり始めたと考えれば、これも逢坂が転校することを選んだ理由といえるかもしれない。

 大人と子供の境界について

 

本作の終盤でお互いの思いを確認した高須と逢坂は、駆け落ちをして高須の18歳の誕生日を待って結婚しようと決意する。高校生が駆け落ちというのはいささか非現実的で、結婚すれば大人という認識も稚拙に思える。それでも、高須の母親の泰子が認めているように、駆け落ちして周囲の助けを借りながら行動する二人はたしかに成長していた。

また、泰子も一見して子供っぽい性格で、生活面では息子が家事全般をこなすなど、「大人」という印象はなかなか生じない。一方で高須の将来を案じて自身が倒れるまでアルバイトをし、高須が事故にあったという知らせを聞いて実家に駆け付けるなど、親としての責務を果たそうとしている姿勢は読み取れるが、これは終盤に至ってのことである。

「大人」と「子供」は連続的で相対的なのかもしれないと思った。

 

以上

*1:間違ってても怒らないでください

ポケットモンスターダイヤモンド・パールのリメイクに思うこと

ポケットモンスターダイヤモンド・パールのリメイクが発表された。ニンテンドーDSで最初のポケモンシリーズである。灰色で、今思えば少々ぼってりとした質感のゲーム機に、懐かしい思い出のある人も多いだろう。

また、ダイヤモンド・パールは今年で発売から15周年。当時10歳だった子供は25歳になる年だ。就職と同時に一人暮らしを始め、大変ながらも社会人生活を送り始めた若者が、会社から帰ってきてプレイすると、そこには(ハードが変わり、グラフィックが変わっても)あの日見た景色が広がっていると思うと、絶妙なタイミングに思えてくる。

本作はSwitchでの発売で、私も今までメジャーなタイトルが出るたびにSwitchを買おうか悩んでは、「でも遊ばないしなあ」という理由をつけて購入を見送ってきたが、今回ばかりは購入を検討しはじめたところだ。発売は2021年冬とのこと。それまで続報を待ちたいと思う。

 

 

 

そんなポケモンリメイクの報に接して感慨に浸っているのは、若者だけではなかった。

人気のない深夜の公園。外灯の明かりもほとんど届かない場所で、ぼんやりと光るスマートフォンの画面が、持ち主の男の顔を、辛うじて表情がわかる程度に照らしていた。

15年前、小学生だった子供のクリスマスプレゼントにと初めて買い与えたゲームソフト。仕事から帰ると暖かい家で待ってくれていた妻と子。厳しいながらもやりがいのあった仕事。ほんのささいなきっかけからドミノ倒しのように多くのものを失ってもなお、かつての記憶だけは失われずに残っていた。

男は赤黒く日に焼けて皺が深く刻まれた顔で、しばらく画面をじっと見つめていたが、

「15年、か。」

やがて捻り出すようにそうつぶやいて画面を消した。

 

翌月曜日、昼過ぎ。都内某所のオフィス街では、昼休みを迎えた労働者が行き交っている。その中に、じっと佇む男の姿があった。ホワイトカラーの労働者とは言い難い風貌の男。だが、周囲は気に留めることなく歩いていく。

男は禿げた頭をピシャリと一度叩いたかと思うと、突然、目を見開いて叫んだ。

ブリリアントダイヤモンドに対抗して、ブリブリブリリアントダイヤモンド!」

突如下着を脱いでその場にしゃがみ込み、茶色いアクアジェットを吹っ飛ばす男。呆気に取られる周囲の人々。周囲がひるんで行動できない隙に男が取り出したのは2枚のうちわ。印刷は色褪せて穴も空いているが、かつてコラボした航空会社のものだ。男のきりばらいが決まり、周囲の人々も堪らず距離を取る。こうかはばつぐんだ!これに調子づいたのか、さらに

「これがワシのポコモンじゃ!」

そう叫んで男が露出した陰部は黄色く塗られ、顔のようなものが描かれている。ねずみポケモンのアイツのつもりなのか、男は陰部を手で生き物のようにうねらせ、裏声で鳴き真似をしている。素人がやっているにしては中々のクオリティだ。誤算があるとすれば、寒さに縮み上がったせいか、顔がしわくちゃになって渋いおっさんみたいになってしまったことだろう。これではまるでどこかの名探偵だ。

 

だが、たとえ不屈の心を持っていてもバトルはいつだって甘くない。

周囲からは「サウスパークが1999年にチンポコモンネタをやってる*1からポコモンはとっくに既出」「頭の輝きはシャイニングパール」「あなをほる覚えるしどちらかというとダグトリオ」との指摘が飛び、間もなくして通報で駆けつけた警官が男を取り押さえる。男もロッククライムで抵抗を試みるも、警官がはがねタイプだったため効果はいまひとつ。あえなく御用となり、ひみつきちではなく留置場へと向かうこととなった。

 

後に残された人々はまた何事もなかったかのように人の流れを作っていく。おそらくほとんどの人は、一人の異常な男のことなど数日後には忘れていただろう。だが、ワクワク気分を取り戻した彼が去り際に見せていた笑顔を私は忘れない。

 

以上

*1:

ja.wikipedia.org

dic.pixiv.net

日本では未放送。インターネットには日本語字幕つき動画も上がっている。