とらドラ!の感想など

とらドラ!というアニメを見た。きっかけは以下のツイートに寄せられたリプライである。

 全25話で見応えがあり、ストーリーもしっかり面白かった。勧めていただいた方、ありがとうございました。

作品について

概括

公式サイト*1に記載のストーリーは以下の通りである。

生まれつきの鋭い目つきが災いして、まわりには不良だと勘違いされている不憫な高校2年生・高須竜児は、高校2年に進級した春、新しいクラスで1人の少女に出会う。 彼女は、超ミニマムサイズな身長の美少女でありながら、ワガママで短気・暴れ始めたら誰にも手が付けられない通称"手乗りタイガー"と呼ばれる逢坂大河であった。 そして放課後、竜児は誰もいない教室に1人残っていた"手乗りタイガー"のある一面を知ってしまう・・・。 竜虎相打つ恋の共同戦線、超弩級のハイテンション学園ラブコメディーここに始まる! 

 本作は電撃文庫より2006年から2009年にかけて刊行されたライトノベルを原作とし、2008年10月から2009年3月にかけて放映された作品である。上に引用したあらすじからもわかるように、作品自体は「学園もの」と「ラブコメ」の王道的な展開であるといえる。主たる登場人物についても、いずれも特徴的なキャラクターがしっかりと表現されていて、クラシックなライトノベル(的)作品といって差し支えないと思う。

キャスティング等について

本作のヒロインたるキャラクターである逢坂大河(あいさか たいが)の声優は釘宮理恵である。釘宮理恵といえば「アイドルマスター」シリーズの水瀬伊織や「ゼロの使い魔」のルイズなどに代表されるように、2000年代から2010年代までの「ツンデレ系」キャラクターの象徴ともいえる存在である。

この「ツンデレ」については、2006年のユーキャン「新語・流行語大賞」には「ツンデレラ」という語がノミネートされている*2から、2000年代後半には「ツンデレ」がある程度人口に膾炙しつつあったと考えることができる。

これらを踏まえると、本作における逢坂も「ツンデレ」に分類することも不可能ではなく、実際作中でも「ツン」に相当する部分と「デレ」に相当する部分を見てとることができ、そうすると、本作は「ツンデレ系ヒロイン」の流行という時代背景を色濃く反映したものということもできるかもしれない。

時代背景について

本作が2000年代の「ツンデレ系ヒロインの流行」という時代背景を反映しているかについては、上で挙げた根拠はキャスティングやヒロインの描写程度であり、強力とは言い難い。一方で、本作が2000年代の時代背景を反映しているということは明白であるといえる。例えば作中では携帯電話が登場するが、もちろんいわゆるガラケーであり(日本でiPhone3Gが発売されたのが2008年である)、他にも「デコ電」や「チョー〇〇」のような、聞かなくなってかなり久しい語がしばしば出てくるし*3、これらを無視してもどことなく「少し古いアニメ」という印象を抱かせる。この印象の出どころはそれこそ「ツンデレ」ともとれるキャラクター、瞳の塗り方のような細部の描写、主たる登場人物の一人である川嶋亜美(かわしま あみ)の髪型、さらにはOPまで、随所に今となっては時代を感じさせる片鱗が散りばめられている。

ストーリーやキャラクターについて

冒頭でも書いたが、本作はストーリーも面白かった。いわゆる「学園ラブコメ」としてしっかりとした骨があるが、飽きることがなく、各回が終わるごとに次回を見るのが楽しみだった。

キャラクターに目を向けると、本作のヒロインたる存在の逢坂は、周囲からは「手乗りタイガー」として畏怖されている一方で実は不器用である。また、手乗りと称されることからもわかるように体格は小柄であり、そのことに劣等感も抱いている。

また、家庭環境に目を向けると、家族との関係は良好ではなく、高須の住むアパートの隣に一人で居住している。ただし、生活能力はほとんどなく、生活費は父親から振り込まれており、高須とは対照的に家事全般も非常に苦手としている。実際、高須が逢坂の部屋を訪問した際に、シンクの悪臭に衝撃を受ける場面がある。

一方、主人公であるといえる高須竜児(たかす りゅうじ)は母子家庭で生活し、母親はスナックで勤務して日中は寝ている時間が多いこともあり、家事全般をそつなくこなしている。そんな高須と母親は、やがて逢坂と夕食をともにするようになる。高須の母親は逢坂を家族のように扱い、逢坂も高須の母親を「やっちゃん」と呼び慕うようになる。

ここで、逢坂が高須に依存しているという構造に注目することができる。逢坂は父親から住居と毎月の生活費を与えられ、一人で生活しながら高校に通うことはできていたが、家事の能力に劣ることもあり、その生活環境は良いものとは言えなかったところ、家事全般の能力に優れる高須と、自身を家族のように扱う高須の母親と知り合った。また、高須の居住するアパートは逢坂の居住するマンションと隣接しており、逢坂は自室の窓から高須のアパートのベランダと行き来することができたこともあり、高須のアパートで多くの時間を過ごすようになり、高須のアパートで夕食をともにすることも増えていった。逢坂が、一般に親の保護の下で生活し、十分な愛情を受けて然るべき高校生であることも加味すれば、上記のような背景から、自身の実の親を代替しうる存在として、高須や高須の母親に親近感を覚えること、また家事等の生活面で高須に依存することも当然といえる。

逢坂の高須への好意はこの依存が原点にあることもあり、逢坂は本作の終盤までほとんど一貫して高須に依存しているのを見ることができる。この依存は、作中で川嶋が指摘しているように、親子関係に近い依存ということができ、逢坂が高須と恋愛関係になるためにはこの依存から抜け出す必要があった。実際に本作の最終盤で逢坂は見事にこの依存関係を乗り越え、一度高須の下を離れて実の母親のところに行き、親子関係のしがらみを乗り越えた上で卒業式(原作では高校3年生の新学期だという)の日に高須の下に戻ってきたのであった。

そういう意味では、本作は依存できる相手を持たなかった逢坂が、高須という依存先を見つけたことで依存し、恋愛感情の自覚を経て成長した上で依存関係から抜け出す物語と考えることができると思う。

*1:

www.tv-tokyo.co.jp

フォント、シンプルさ、軽さなどに時代を感じる。

*2:

www.jiyu.co.jp

*3:デコ電」や「チョー〇〇」に限って言えば、2008年の時点で徐々に死語になりつつあったかもしれない。

節分に思うこと

2月2日は節分であった。2日が節分になるのは実に124年ぶりのことらしい。

私も歳の数だけ豆を食べ、恵方巻きを食べ、至って普通の節分を過ごした。

ところで、節分の時期になると毎年思い出す昔話があるので書いておこうと思う。

 

 

子供の頃、近所に公園があった。そこそこ大きな公園で、遊具はもちろんだが緑も豊かな公園だった。

小学校からの帰り道には同級生と「3時半に公園に集合」などと約束をして、家に帰ったらランドセルを投げ捨てるように置いて、おやつを頬張りながら自転車を漕いで公園に行き、そのまま日が暮れるまで遊んだ。

西日でだんだん赤く染まる空は、もう間もなく家に帰らなければいけないことをはっきりと伝えてきて、私たちはそれを見るたびに少し悲しくなりながら、残り少ない遊びの時間を必死に充実させようとしていたし、彼らと別れて家に帰る道中、夏の夕日が沈んだ直後、ほんのわずかな時間にだけ見える青色と水色の中間のような色の空や、冬のアスファルトを静かに照らす街灯の明かりは、家で待つ親や食卓に並ぶ温かい夕飯やいつも夕方に放映されていたテレビ番組を想起させ、友達と遊ぶ時間が終わってしまったことの悲しさを家に着くまでの間に徐々に癒してくれた。

ところで、その公園に行くとたいてい、一人の中年男性がいた。彼は公園にいる時はほとんどいつも、入って少し行ったところにあるベンチに陣取っていた。時々私たちが遊んでいるのを横目に眺めつつ、何をするでもなく時間を潰していたのだろう。彼の手にはいつも酒の四角いパックが握られていて、やがて成長してコンビニで同じ商品を見た時に初めてそれが鬼ころしという商品であることを知った。

今だとこういった人間は通報されてツイッターでは不審者情報が流れるのがオチかもしれないが、当時は比較的こういった人間にもおおらかだったのか、少なくとも通報を受けて警官が公園に来て話を聞いているところは見ることがなかった。私たちもまた、彼が危害を加えてくる人間ではないことは雰囲気で理解していた。

 

2月のある日のことだった。いつもの通り学校から帰宅し、そのまま公園に向かうと、公園の入口にパトカーが2台止まっていた。別に悪いことをしていたわけではないが、少し後ろめたいような気持ちになりながら公園に入ると、まず制服の警官の集団が目に入った。

私は祈るような気持ちでそこに近づき、そして、警官の輪の中に彼を見つけてしまった。

時間にして数分ほどだろうか、彼は警官たちと言い争っていたが、やがて半ば強引に手錠をかけられて公園から連れ出されていった。サイレンの音が鳴り出し、すぐに遠ざかっていった。彼がよく座っていたベンチには、やはり鬼ころしのパックだけが残されていた。

翌日は朝礼で担任が「公園に変質者が出たから気をつけるように」という話をしていたし、家に帰れば親はその公園に行くなと言ってきたから、同級生の一人の家で遊ぶことになった。道すがら公園に寄ると鬼ころしのパックがそのままベンチに残っていた。

以来、彼を見た者を私は知らない。子供らしく、警察に逮捕されたのだから刑務所に行ったのだという者もいたが、本当のところは分からない。程なくしてその公園は改修工事が始まり、桜が散り始める頃には遊具もベンチも新しいものに交換されて、私たちは再びその公園で遊ぶようになった。

 

 

以上

PUI PUI モルカーについて思うこと

「PUI PUI モルカー」というアニメがある。

molcar-anime.com

見里 朝希(みさと ともき)監督の作品で、テレビ東京系の子供向け番組「きんだーてれび」で毎週火曜日朝7:30から放送されている。放送時間を見れば明らかなように、主な視聴者層として子供をターゲットにしているにもかかわらず、Twitterで話題となった。

舞台はモルモットが車になった世界。
癒し系の車“モルカー”。くりっくりな目と大きな丸いお尻、トコトコ走る短い手足。常にとぼけた顔で走り回るモルカー。渋滞しても、前のモルモットのお尻を眺めているだけで癒されるし、ちょっとしたトラブルがあってもモフモフして可愛いから許せてしまう?!
クルマならではの様々なシチュエーションを中心に、癒しあり、友情あり、冒険あり、ハチャメチャアクションもありのモルだくさんアニメーション!

(公式サイトより)

実際に見てみると、フェルトで作られたモルカーがストップモーションで動かされており、確かに可愛いし癒される。また、人間を登場させる際には多くの場面で人形を使っているが、これもストップモーションの低いFPSと組み合わさり、人間が「モルカー」と共存する世界を違和感なく描くことに成功しているといえる。

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2話より引用。ピストルを向ける銀行強盗も、人形だとコミカルな印象を与える。

もちろん、例えばモルカーを運転するシーンなどでは実際に生身の人間が演じていることもあるが、その際もFPSを下げるのはもちろん、動きをややオーバーリアクション気味にすることで、セリフが無くともしっかり意味が伝わるし、全体のコミカルな雰囲気を損なわないようにする工夫を見てとることができる。

さらに、放映後にはYouTubeバンダイチャンネルで翌週月曜日まで配信しているため、朝見る時間がとれなくてもその日の夕方には見ることができるのもありがたい。私も朝はなかなか起きられないので毎回YouTubeで追いかけている。

 

そんなPUI PUI モルカーの流行に乗っかろうとしたのはいつもの全裸中年男性。子供向けのアニメの何が面白いのかと疑問を抱きながらも視聴したところ、確かに面白い。

しかし、便乗するためのアイデアが一向に浮かばない。全裸中年男性をフェルトで作ってストップモーションでアニメを作ったところで売れるわけがないのは明白。困った全裸中年男性は、とにかく基本に立ち返り、モルカーの面白さを徹底的に分析することに。

まずはモルモットについて資料を集めるべく、久々にパンツを履いて図書館に向かうと職員がマスクの着用を要請。うっかりマスクを忘れてしまったため、やむを得ずパンツをマスク代わりにしたところ下半身が露出してしまい、パンツを被った全裸の男がいると職員に通報されるハプニングもあったが、急いで予備のパンツを履くことで事なきを得た。

早速モルモットについて熱心に調べる中年男性。ここ最近は消費税、酒税、住民税以外は払った記憶がないが、税金の恩恵を実感しながらアイデアを出すべく資料をめくると、モルモットの分類に関する記述を発見。どうやらモルモットは齧歯目の中でもテンジクネズミ科に属するらしい。興味を惹かれた中年男性は、齧歯目に属する代表的な種を探し始めた。モルモット、カピバラ、ネズミ、ビーバー、リス。いずれも既に開拓されてしまっている。小動物の愛らしさ、門歯がチャームポイントのどこか気の抜けたような顔は、なるほどたしかにウケがいい。しかしこれらの動物に手を出したところで所詮は二番煎じ。新たな分野を開拓しなければ、情報が氾濫する現代で生き残ることは到底不可能だ。

 

何か、何かまだ開拓されていない齧歯目はないか。

さらにページを進める中年男性。ふと、あるページが目に留まった。

 

齧歯目チンチラチンチラ属、チンチラ

モルモットやハムスターに近い外見で、ウケる齧歯類の基本のツボを抑えつつも、大きな耳と毛並み豊かなしっぽで差別化もできる。まさに天啓だった。

ネタが決まればあとは料理するだけだ。PUI PUI モルカーでは渋滞や割り込みなど、車でイライラする出来事が多いので車をモルモットにしたと見里監督がインタビューで答えていたのを思い出し、全裸中年男性がチンチラになったという設定でいくことに。実際のモルモットの鳴き声を当てているPUI PUI モルカーにリスペクトを込めて実際のチンチラの鳴き声を使おうとするも、ここでチンチラが入手困難であることが発覚。しかもフェルト加工の技術もない。

なんとかこのアイデアを形にしたいと頭を抱えて唸る中年男性だったが、しばらくしてはっと顔を上げると、何か妙案を思いついたのか、まるで憑き物が落ちたかのように晴れやかな笑顔で図書館を後にして駆け出した。

 

数日後、都内某駅前にどこからともなく現れた中年男性。パンツしか履いていないその姿はたちまち衆目を集め、すぐに人だかりができた。突如、中年男性がパンツに手を突っ込む。横から転び出る陰部。ざわめきに気づいて駆けつけた警官に「本当のチンチラを見せていただけ」「これはしっぽだから猥褻物ではない」などと弁解するも、警官は「チンチラはもっと全体的に毛が生えているだろ」「しっぽが前についてるのはけもフレのエロ同人に出てくる竿役だけ」と中年男性が綺麗に剃り上げていることを指摘しつつ一刀両断。あえなく公然猥褻で御用となった。

 

日本チンチラ協会という団体が存在していて、チラオ君と協子ちゃんというオリジナルキャラクターもいるらしいです。かわいいですね。

chinchilla.or.jp

以上

ケムリクサの感想についての補遺など

前回、前々回とケムリクサの感想などを書いたが、書き残したことを補遺として書いておく。*1

 

補遺1(OPについて)

OP、初めて聞いた時アルペジオ思い出してナノっぽいなと思ったらやっぱりナノだった。低めの声が出る女性ボーカルは好きで、多分小さい時にみたプロジェクトX中島みゆきがOPとED歌ってたの見てた影響だと思う。

補遺2(りりの分割について)

りりを「分割」したら出てくるのがあの6人なの、本人が見たら真顔になりそう。多重人格にしても6人は多過ぎるぞ。*2

補遺3(ケムリクサについて)

ケムリクサというタイトルからは容易にタバコが想起されるが*3、実際作中でも一度だけワカバが喫煙するようなシーンがある。その際りりは臭いを嫌がっていることから、ケムリクサはやはりタバコと同じとみることができる。*4そう考えると、作中でケムリクサを使っている3人はタバコの匂いがするのかもしれない。最近はタバコへの風当たりが強くなっているけど、タバコの匂いのする人にはどこか懐かしさを感じるので嫌いじゃないです。

補遺4(りつについて)

りつさん幸薄そうですき、りんを焚き付けた後になって微妙な好意の芽生えを意識して顔を曇らせるのがめちゃくちゃ似合うキャラだと思う。それでりんりなわかばにキツく当たって後になって1人で後悔してほしいし、それをりなの立場から揃って見て面白がりたい。毎朝起きておはようって言いたいし、頑張っていても結果が出なくてガチで辛い時に愚痴を言ったら努力を見ていてくれて慰められてちょっと泣きそうになりたい。時々微妙に怒られることをやって優しく叱られたいし1回だけマジで怒られることをやってガチギレされて落ち込んで反省したい。ガチギレした後泣いてしまい、泣かせてしまったことにめちゃくちゃ自責の念を感じるのもいいと思う。反省したあとちょっといいことやって褒めて欲しい。

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りつ。左は3話より引用。右は5話より引用。

この感じで以前はりんとは比べ物にならないくらいゴリゴリの武闘派なのめちゃくちゃいいと思った。大量の水を手に入れて元気になったりつさんに毎日稽古つけてもらいたい。ちょっとナメてかかったら普通に完膚なきまでに叩きのめされたいし、自分の中にある甘えとか驕りとかを詳らかに指摘されて精神的にもボコボコにされたい。多分素直に弱点を受け入れることができるので毎日コツコツ地道に努力して認められたい。あと月に3回くらいお願いして耳触らせて欲しい。

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りつ。12話より引用。つよそう。

おばさんじゃんwて言った人間許さないからな。

以上

*1:あくまで補遺なので前回、前々回と比べると短めです。1200文字くらい。

*2:遺伝型と表現型はかならずしも対応しないと考えればおかしくはないとは思う。

*3:そもそもわかばという名前といい配色といい、明らかにタバコの銘柄のわかばが意識されているといえる。

*4:見終わってからちょっと調べたら、自主制作版では実際に喫煙シーンがあるらしい。

ケムリクサの感想など2

前回ケムリクサの感想を少し書いたが、今回は分量の都合などで書き切れなかったことを書いておきたいと思う。*1*2

comb.hatenablog.jp

 

主人公は誰か

この作品の主人公は誰なのかということを考えてみると、意外と難しい問題である。一見わかばが主人公のようにも見えるが、公式にはりんが「中心的人物」ということになっている。

kemurikusa.com

しかも、ここではわかばは紹介されていない。これを踏まえると、主人公はりんであると見ることもできるだろう。

とすると、りんとわかばの立ち位置は何かという疑問が生じる。

ここでは、まず主人公がりんであるという観点に立って、物語を抽象化することで検討を進めていこうと思う。

本作はりんが姉妹に支えられて成長し、自らの「スキ」を見つけ出す物語と捉えられる。遺された姉妹を守るべく先頭に立って戦うことを決めたりんは、確かにそれ以前、りくが「ビービー泣いていた」と表現していた時よりも強くなったということができるだろう。しかし、その強さは脆いと言わざるを得ない。りんが強くあろうとする理由は明快で、姉妹を守ろうとするためである。これは確かに強力な理由だが、それ以外の理由がないのである。すなわち、何かのきっかけで姉妹が失われれば、もはやりんにとって強くあろうとする理由はない。だからこそ7話で破壊できない壁にぶつかった時は座して死を待つことは考えず、むしろ自らの「本体」を使う、いわば自分の命と引き換えに壁を破壊するという考えを躊躇うことなく実行しようとし、りつが慌てて止めている。これは表面的にはもちろん強い自己犠牲精神ゆえの行動と見ることもできるが、(この時点での)りんの認識では現状では自分でないと壁を破壊することはできず、従って自分が壁を破壊しなければそれは水が尽きて自分のせいで姉妹もやがて死ぬことを意味するからこその行動と見ることもできるし、ここからさらに穿った見方をすると、目の前で自分の姉妹が消えていくのを見るくらいなら先に消えてしまいたいという自己中心的な考えを邪推することも不可能ではない。これこそがりんの強さの裏にある脆さである。

一方で、作中のりんはりつ、りな、わかばと前身を続けるうちに心境に変化が生じている。一言で言えば、しなやかさを獲得しているといえるのである。わかばという存在を得たことにより、そしてわかばに信頼を寄せられるようになり心に余裕ができた結果、当初のどこか刺々しい雰囲気は最終的にはわかばが12話の最後に指摘しているように丸くなっていることは論を俟たないだろう。*3

以上の点を踏まえると、りんは本作において殻を破り成長するヒーローたる存在であったと結論づけることができる。ならば、そのりんと対を為す存在であるわかばはどのような立ち位置にあるか。

単刀直入に言えば、メインヒロインであるということができると思う。

ヒロインはヒーローを支える存在であり、ヒーローと結ばれる存在である。作中のわかばの役割に適合していることがよく分かっていただけると思う。

さらに、りんはりりの記憶の葉を受け継いでいる。この点において、りんは6人の姉妹の中でりりに最も近い存在であるとすることができる。

ここでりりの行動を振り返ると、ワカバとの別れ以降のりりはほぼ一貫してワカバとの再会を目的に行動しているように描かれている。りんとわかばについても、最終話でりんが自ら述べているように同じ構図を見ることができる。

すなわち、本作はりり/りんがワカバ/わかばを一度失い、再び手に入れるまでの物語である。この構図において、りんの行動は失われたものを取り戻すという主体的なものであるのに対し、わかばは一度失われてりんに助けられると極めて受動的である。この点からもりんがヒーローでわかばがヒロインであることが明らかに見て取れると思う。*4

補遺

上に書いたように、本作はりんの成長を描いた物語であると抽象化することができる。ここではもう少し掘り下げてみようと思う。

既に述べたように、かつて弱く、姉妹に守られる存在だったりんは、遺された姉妹を守るという必要に迫られて強くなった。一方、その強さは脆さも内包していたのであった。

姉妹を守るためという動機は確かに明確だったが、その動機には姉妹は自分が助けるものだという前提があった。だからこそ、例えば橋でヌシと対峙した時には、りなが陽動するというアイデアはりんではなくわかばから出された。りんにとってりなは守るべき存在であり、主体的に戦闘に参加するということは考えられなかったからである。

このような脆弱な動機に支えられた強さは、やがて打ち砕かれるものである。姉妹を守るということは守るべき存在である姉妹の助けを期待することができなくなることになる。最終盤、巨大な赤い幹との闘いに臨むりんは、当初1人で戦おうとするも歯が立たなかった。結局、りんはわかばを失い、本体を使って戦おうとするが、失敗する。りんにとって姉妹を守ることは何よりも優先されることであり、りんは失意のうちに姉妹のもとに戻ろうとする。

物語はここで、りんがりつとりなからの伝言を受けたことで大きく動き出す。伝言の内容は、「りんの好きなことをしろ」という、奇しくも直前にりんが見た、りりからのメッセージに一致するものだった。そして、りつとりなが戦っていること、2人がりんのために残った貴重なケムリクサを届けたことを知る。ここにきて、りんは「姉妹を頼ること」を思い出して背中を任せ、自分の「好き」のために生きることを思い出して目の前の壁を打ち破るのである。りんは戦う理由として「姉妹を守るため」だけでなく「わかばを取り戻すため」という新たな理由を手に入れたのである。

この二つを思い出したりんは、かつての脆弱さを克服し、より強くなったといえる。姉妹だけでなく自分の「好き」のために生きるからこそ再び走り出し、左腕と左脚を失っても*5、姉妹を頼れるようになったからこそ既に亡くなったと思っていた姉妹に助けられる。りょうがりんの頭を撫で、苦労を労うシーンは象徴的である。当初姉妹のために孤独に戦っていたりんからは考えられないだろう。

姉妹を頼ることで壁を打ち破ることに成功したりんは、かつてのりりの因縁に決着をつけてわかばを取り戻し*6、結果として今まで守ってきたりつとりなも無事であるという未来を勝ち取ったのである。最後にりんが見せた涙はりんの緊張の糸が切れたため、姉妹を守ることができた喜びのためなどといった理由を与えることもできるだろうが、これもかつてりんがすぐに泣いていたことを踏まえると、根本的にはりんが以前のように姉妹を頼れるようになったためと見ることもできる。

 

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りつ。12話より。強そう。

 

以上

*1:前回の記事は大体2000文字ちょっと、今回の記事は大体3000文字弱ある。

*2:はてなブログはページを分割することができないのであまり長く書けない。勝手に自分の中で目安は3000文字以内ということにしている。

*3:もちろん必要な場合にはしっかり周囲を警戒しているが。

*4:それこそ毎度さらわれるピーチ姫とその都度助けに行くマリオの構図と同じである。

*5:結構グロテスクなシーンだと思う

*6:1話で警戒して巻いていた紐が結果としてわかばを救ったのは伏線としてすごいと思った

ケムリクサの感想など

ケムリクサというアニメを見た。きっかけは以下のツイートに寄せられたリプライである。*1

 面白かったのだが、ただ見て面白かったという感想だけで終わるのはもったいない気もする。もちろん何も考えず「おもしれぇアニメ」という感想で終わるのもそれはそれで楽しみ方の一つだと思うし、見るたびにあれこれと言語化するのは正直言って面倒でもあり、結局はバランスが重要という当たり障りのない結論に落ち着く。が、それはそれとして、せっかく自分なりに考えたことを言語化してアウトプットしないのはもったいなく感じてしまうのも事実なので、今回は書いておくことにする。

感想とか

本作の展開の特徴として、世界観に対する明確な説明が与えられていないという点を挙げることができる。作中では線路やビル、遊園地など、かつて人類が生活していたことを示唆する遺構が何度も登場する。この点において、本作はポストアポカリプスに分類することができる。ただし、この分類はかなり抽象的な分類で、いわば「日常系アニメ」とか「アクション映画」といったレベルである

さて、このようなポストアポカリプスの世界を描写するにあたってはアポカリプス以前あるいはアポカリプス自体についての描写が為されることが基本である。従って、最も基本的なストーリー展開は主人公の日常→何らかの出来事→その後の世界ということになるだろう。*2もちろん、実際にはこれを少しアレンジして、例えばポストアポカリプスの世界の描写→夢の中で以前の平和な日常を回想する→夢の中でアポカリプスとなる出来事が描かれて目が覚めるといった展開などもベタな例といえるだろう。いずれにせよ、世界観の説明をふつう受け手は求めるし、書き手もそれに応える。

その点、本作ではりん、りつ、りならの生きる荒廃した世界の描写も荒廃した理由も、明確な説明が当初から与えられることはない。彼女らは赤い霧に包まれた世界で「虫」と呼ばれるものと戦っているが、ならば赤い霧とは何か、虫とはなにかといった点についてはほとんど説明がない。もっと言えば、タイトルにもなっている「ケムリクサ」とは一体何かということも明確には説明されない。けもフレでも世界観に考察の余地が残る展開だったが、本作ではこのように明確な説明が為されないことに加えて、全体的に夜のように暗い色遣いで描かれていること、正体の知れない虫との戦いが描かれていることなどから、最初の数話ではある種の不気味さを感じ続けることになる。

一方で、説明がないことによるストレスはあまりない。その一つの理由として、わかばの存在を挙げることができるだろう。記憶のない状態でストーリーに組み入れられ、苦労しながらもなんとかやっていくという構図を描くことで、視聴者が置いていかれることなくストーリーを追いかけることができるようになる。これもけもフレによく似た構造ということができるだろう。

また、本作の特徴として「3Dモデル感」とでもいうべきものがあるといえる。なんでもいいのでアニメを見ればわかることだが、キャラクターは画面に描かれていても動いているとは限らない。*3これに対し、我々の体は「セリフ」がない間も動いているのがふつうだ。これは心臓の脈拍や呼吸による体動というだけではなく、例えば人と会話する時も完全に体の動きが止まることはなく、たとえば話に興味が出れば多少前のめりになったり、時々うなずいたりといった動きがある。

おそらく本作は3Dモデルを動かして制作されていると思われるが、いわば現実と創作のあいのこ的な3Dモデルでの表現が独特の雰囲気を醸し出している。本作はアクションシーンも多く描かれているが、こういったシーンは3Dモデルが苦手とするシーンかもしれない。もちろん、こういった表現の特徴も本作の味の一つということができる。

ここまで書くと、本作がひたすら奇を衒うことに力を注いでいるかのように思われるかもしれないが、そんなことはなく、もちろん抑えるべきツボは抑えられている。登場人物もそれぞれキャラクターが立っている。外観や話し方だけでなく、遺された姉妹を守るために強くあらざるを得なかったりん、そのりんを側で見ていて時に後ろめたさを感じながらも自らにできることをこなし、りんをサポートすることに徹するりつ、時に2人を困らせつつも底抜けの明るさで元気付けるりな。3人が相互に支え合うことで最低限安定した関係が維持され、わかばがそこに加わることで物語が前に進み始める。終盤に一気に世界観が説明されて伏線が回収されたのは快感だったし、一度は別れたりょう、りく、りょくとクライマックスで一度限りの共闘をする展開も良かった。一方で、赤い霧が世界に満ちた理由はなんとも悲痛なものだった。善意が結果として悲劇につながるのはやはり辛い。*4

結局、派手な描写や緻密な書き込み、豪華な声優といった要素は無いかもしれないが、要所要所で抑えるべきものはちゃんと抑えた上でたつき監督の色を感じさせる作品だったということができると思う。浅い感想だけど今回はこのへんで終わりにします。

末筆ながら、勧めてくれたフォロワーには改めてこの場で感謝したい。

 

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りつ。3話より。



 

以上

*1:言うほど「12月も終わり」ではない。

*2:かなり昔の作品だが、見たことのある作品だと「Threads(スレッズ)」や「The Day After(ザ・デイ・アフター)」なんかは核戦争のシミュレーション的要素もあるのでこの展開に近かった気がする。

*3:余談だがこれは演劇なんかでも同じで、セリフを発している間よりも舞台でセリフの無い時にどう「止まるか」ということの方が難しいという話も聞いたことがある。

*4:最近だと魔女旅の3話Bパートと9話なんかが該当する例だと思う。