電脳コイルの感想とか

電脳コイルというアニメを見た。WikipediaNHKのサイトによると、2007年5月から同年12月まで、土曜の夕方6時半からかつての教育テレビ、現在のEテレで26話が放映されていたとのことであった。放映の枠は明らかに子供を意識したものではあるが、NHKとしてはかなり力を入れていた作品ということになるのだろうか、今見てもかなり面白い作品だったと思う。

見ながら、あるいは見終わってから考えたことを備忘録的に以下に書いておく。

いわゆるSF的描写について

本作の放映された2007年時点では、本作は近未来的SF要素を持った作品であることは言うまでもない。作中で描写されているウェアラブルバイスによるAR(拡張現実)やホログラム、車両の自動運転、タンジブルなUIといった要素は、ようやく初代iPhoneが発表されたばかりだった当時のレベルでは間違いなく未来、それも近いうちに実現されるであろう未来であったのは明らかである。

「昔の近未来」を描いたSFで、描写されている内容が実現したか判定する行為は、現在の尺度をもとに後出しじゃんけんで昔のことを評価することになるのでアンフェアな感じがしてしまい個人的にはあまり好きではない。ただ、これらの技術の少なくとも一部は既に実現、あるいは実現に向けて着実に進歩していることもまた事実であると思う。自動運転はいよいよ市販の車両に実装され、自動運転であるがゆえに発生したと思われる不幸な事故のニュースも残念ながら目にするようになった。本作のキーアイテムである「電脳メガネ」も、Google Glassをはじめとしたまさにメガネ型のウェアラブルバイスが登場した。(こうしたデバイスは残念ながら社会に普及するには至っていない、今のところは)

このように、近未来を描いたSFとして適度な技術的躍進を経たリアリティを持った描写をしながら、さらに予言のように未来を「言い当てた」ことが、結果として本作を(当時だけでなく)今見ても面白いものにしている面はあると思う。

全体に通底するテーマについて

本作は現実世界と電脳メガネによってアクセス可能な「電脳空間」の両方を舞台として物語が進行していく。ここでははっきりと子供と大人の対立が表れている。

子供にとって、電脳空間は現実世界とはリンクしながらも独立したように存在するもう一つの世界である。彼らは普段常に電脳メガネを着用している。電脳空間は電脳メガネを着用している人間の中だけで閉じていて、そこには現実世界とは別のリアルがある。

一方大人にとっては、電脳空間はあくまでも現実世界の拡張、虚構、あるいは子供騙しの遊びに過ぎないと捉えられている部分がある。子供たちの親が電脳メガネを没収するシーンはまさに電脳空間で「メガネ遊び」にふける子供たちを無理やり現実世界に引き戻す行為だし、ハラケンが受診した医師も電脳メガネを手放せなくなってしまったと述べるが、これは潜在的に電脳メガネ、あるいは電脳空間のことを子供のおもちゃのように見下しているとも捉えられる。そもそも病院で電脳メガネの着用が何らかの方法により勝ち取るべき「権利」のようなものである点からも、社会、それも大人の社会においては電脳空間はあくまでも虚構の拡張現実であるといえる。

電脳空間が虚構であるからこそ、大人たちは子供たちがそこに(「メガネ遊びで意識不明になるほどの怪我をした」という情報に触れて)「過度に」入り浸っているのを知ると子供たちを現実に連れ戻そうとする。ここで、大人たちは完全に保護者としての善意で動いており、これは大人たちの視点では正しい行為でもある。大人の世界では電脳空間ではなく現実世界に依拠して生活を送っていく必要があり、したがって子供たちもいつか成長した際には、当人たちにとってはもう一つのリアルであった電脳空間から離れる必要がある。

夕焼けについて

作中で「あっちの世界」等と呼ばれる電脳空間は、必ず夕焼けや暗い夜の中のような世界として描かれている。「あっちの世界」は、登場人物の過去の記憶と強く関連している(優子は祖父の記憶、ハラケンはカンナの記憶、勇子は兄の記憶である)。子供の成長の一側面としてアイデンティティの確立、自己と他者の識別能力の獲得があるとすれば、夕暮れや夜のように他者の識別が覚束なくなる時間帯が過去の記憶とリンクしているのはこの識別能力が今より劣っていた時期に意識を遡らせることとリンクしていると考えることもできる。こう考えると、意識がより昔に遡っていくことで他者の識別が不可能な夜へと至ることも説明される。

勇子が最終話で囚われていた世界は暗闇であるし、その世界は優子と勇子の二人が作った世界である。過去に囚われることをやめた勇子は、優子のいる方向、すなわち光の見える方向に向けて走り出す。現実世界に「帰ってきた」勇子はそこで、ようやく優子のことを心から受け入れることができたのであった。

勇子の内面と髪型について

勇子の髪型は勇子自身の内面的な成長とリンクして描写されている(ことがある)。勇子は冒頭から、他の子供たちよりどこかクールで大人びているように描かれている。これは猫目と結託して行動することが多かったからと考えることもできるし、親と過ごす時間が無かったあるいは少なかったと思われることに原因の一端を求めることもできる。(勇子は作中で、金沢から引っ越してきた後は叔母と二人で食事をしているかのように描かれている。少なくとも、この年頃の子供が特段の事情もないのに親と食事をしないのは少々不自然である。ただし、例えば一時的に叔父の見舞いも兼ねて金沢から引っ越してきている可能性もある。)

勇子は普段髪型をツインテールにしており、こうした大人びた描写と比較するとアンバランスさが目立ってくる。そうしたアンバランスさもキャラクターデザインとしては魅力の一つではあるし、強く印象付けることにも繋がっていると思った。

一方、勇子がツインテールを解いた状態で描かれている場面も複数ある。夏祭りで浴衣に身を包んだ場面、電脳メガネを着用したまま寝て、悪夢から目を覚ました場面、そして最終話で病院のベッドで肉体が眠り、意識は記憶の中の世界、過去の世界を振り切り優子のいる世界に走り出す場面である。

 

1/30 追記

下書きの山に埋まっていたのを発掘した。読み返して少しだけ手直しして公開する。こういうのは印象が新鮮なうちにできるだけ早く書きあげて、少し置いて読み返すといいのかもしれない。それはそれとして、改めて振り返ってみるとかなり分かりやすい象徴化をしている作品だったと思う。また、「子供の心理」的なものに寄り添っている。そういう意味では、教育テレビらしい作品だという印象を持った。

2023年、電車に乗れば多くの人がスマートフォンを手に持ち、画面を見つめている。観察すればむしろ子供の方がスマートフォンを見ていないことの方が多い気すらしてくる。これはおそらく高価な電子機器を子供に持たせない、トラブルに巻き込まれないように機能の制限された端末を持たせるといった背景があるのだろうが、いずれにせよ子供ではなく大人の方が電脳メガネのような端末に依存しているというのは皮肉さを感じないこともない。