春の雨に思うこと

朝の寒さにコートを着て外に出ても、昼の陽気にシャツ一枚でも少しだけ汗ばむことも増えてきた。桜はいよいよ盛りを迎える頃だ。春の嵐で散っていないことを願うばかりである。

 

 前日の夜遅くから降り始めた雨は、夜になっても中々弱まる気配を見せなかった。

昔から雨は好きではないが、雨の中を歩くのは傘に当たる雨の音が聞けて嫌いではないから、御徒町まで足を伸ばすことにした。夜の不忍池は人通りもなく、街灯が照らす水溜りに波紋がいくつも広がっていた。

ふと、向こうから誰かが歩いてくるのが見えた。スーツに傘を差し、今となってはやや古臭い中折れ帽をかぶっている。離れている時は酒にでも酔ったのか、何か言いながら奇妙な動きをしているだけのように見えたが、近づくにつれて彼の言葉はリズムを持って聞こえてきた。まだ雨は降り続いているのに、まるで雨上がりの空を見上げるように傘を傾けて手を広げ、そのまま傘を畳む。

一瞬、どうやってやり過ごすべきか考えたが、この手の人間はこちらが刺激しなければ案外無害なものだ。私は黙ってそのまますれ違うことにして、傘で少し顔を隠すようにして歩みを速めた。一歩ずつ、着実に近づいていく彼との距離。近づくにつれて、彼の動きは奇妙ではあるが決して不規則ではなく、歌のリズムに見事にマッチしているということがわかってきた。

ところで、不忍池のほとりには、3段ほど高くなったウッドデッキがある。ベンチもあり、昼間はここから池を眺めていると、たかが3段といっても中々いい眺めである。今、前からステップを刻みながら歩いてくる男は朝の日差しを浴びるように全身で雨を浴びている。このペースで行けば、ちょうどこの先のウッドデッキの前でそのまますれ違うことになるだろう。

この予想は、実のところ半分だけ正解だった。確かに私たちのペースは変わらず、ウッドデッキの前に同時にたどり着いた。だが、そのまますれ違うことはなかった。彼がやにわにデッキに上り、そのまま踊り始めたからだ。完全に想定外の動きに、私は思わず足を止めてしまった。

彼のステップに合わせて、雨で濡れたウッドデッキはこもった音を響かせる。ただ地面を照らしていただけの街灯は、今や舞台を照らすスポットライトだった。私はあまりにも楽しそうな彼の様子に足を動かせずにいた。

おもむろに上着に手が伸び、ワイシャツに手が伸び、さらに、ベンチを器用に使って全体の流れを損なうことなくズボンも脱いでいく。歌とダンスはともかく、あっという間にパンツだけになったその手際は、ただただ見事と言うしかなかった。

「これから、どちらへ行かれるのですか。」

彼がひとしきり歌い終えてから尋ねると、彼は変わらず楽しくて仕方がないといった笑顔で一言、交番、とだけ残してまた歩き出した。

しばらく呆気にとられていたが、せめて脱ぎ捨てられた服と傘は届けようと思い彼の上着を拾い上げた。ポケットには何も入っていないのか、かなり軽い。そのまま軽く畳もうとすると、ポケットから一枚のメモが舞い落ちた。メモには、

「野に出でゝ写生する春となりにけり」

と子規の句が一句だけ書かれていた。予報では、雨は間もなく上がることになっていた。私は服の上に傘を開いて置いてやり、御徒町まで歩き始めた。

 

以上