「ぼくらは都市を愛していた 」に思うこと

夏休みの宿題といえば読書感想文と自由研究の二つみたいな風潮があり、研究はいつもやっているので(本当に?)読書感想文の方をやることにしました。

読んだ本

「ぼくらは都市を愛していた 」(神林 長平)*1

kindle版で買った。夜の1時か2時くらいから読み始めて、朝の7時前くらいまでで読んだ。もっぱら漫画用にしか使っていなかったが、黒地に白文字で表示してくれていたので、小説でも読みやすかった。

なぜこの本を読んだか

以下のツイートによる。

少女終末旅行は好きな作品だったので、この本も楽しめるのではないかと考えた。

感想など

私は普段からあまり本を読まないが、中でもSFは最後に読んだのがおそらく小学生の時だったと思う。SFは我々が今現実に持っている技術を想像力によって外挿して未来のしばしば不幸な世界を描くもので、当時の私はそこで描かれる世界に対し、言いようのないおぞましさや恐怖にも似た感情を抱いたのを覚えている。当時の感情を今反芻すると、幸福を導くものとして自らが無条件に信頼を寄せていた概念としての科学技術、あるいはそれに依拠した社会の外挿先が幸福な社会ではないことに由来していたように思われる。

この感覚は今回もとてもよく再現された。テクノロジーとそれに依存しきった社会から導き出される、幸福ではない未来をじっくりと丁寧に描き出す筆致は見事だった。世界観の導入し、疑問を提起し、時には手がかりを提示しながら徐々に不安を煽っていき、最後に疑問の答えを提示する。こう書くと基本的なことのように思われるし、実際その通りなのだとは思う。ただ、それを数百ページに連なる長い文章で実際に実現できるのかというのはまったく別の話であるし、しかも読者が納得できる水準・内容で実現しなければならないことも考えるべきだろう。少なくとも今のところ小説家が職業として成立しているのは、おそらくその難しさが根底にある。

ネタバレを含むかもしれない感想

冒頭に貼り付けたAmazonのページに記載されているあらすじを引用する。

デジタルデータのみを破壊する「情報震」が地球上で頻発している。原因はおろか震源地すら特定できない。あらゆる情報が崩壊し、機能を失った大都市からは人の影が消えた。偵察のためトウキョウに進駐した日本情報軍機動観測隊は、想定外の「敵」と出会う…。

20世紀終わりから21世紀初頭にかけて我々の社会を変えたものがある。携帯電話とインターネットの普及だ。1994年、携帯電話端末の売り切り制が始まってから携帯電話は爆発的な普及を見せた。さらに、1999年にiモードEZwebが提供開始されると、2002年にはインターネットの利用人口率が50%を超えた。

www.soumu.go.jp

 

情報化と溶けあう人格

我々の社会が情報化社会と形容されるようになってから久しい。インターネットの普及により、我々は休む間もなく情報をやり取りするようになった。最近では脳がツイッターになられた皆さんが、日夜ツイートを通して自分がどこにいるのか、何を考え、何をしているのか、誰に求められたでもないのに自分から開陳し、時にバズっておられる。特にツイートすることのない日々を送る身としては、精の出ることで感心しきりである。

そうした状況を「○○していないと死ぬ」と比喩的に表現するのはよく見るが、彼らの人格の一部としてそうした営為は欠くことのできないものであるという点においては、この表現は比喩ではなく、真実の一面を正しく描写しているのかもしれない。

情報のやり取りは、あるいはより一般的にコミュニケーションは、情報の送り手に関する何らかの内容のやり取りであり、その内容は人格とも密接に関係する。誰かが自分の考えを言葉にしてあなたに伝えると、あなたはあなたの脳でその言葉からあなたの考えを組み立てる。考えを伝える手段は今のところ、もっぱら聴覚か視覚か触覚を介したものに限定されている。あなたの脳内で組み立てられた相手の考えは、あなたの認知能力に問題が無い限りあなた自身の考えとは区別される。

だがもし、情報化社会がさらに"進展"し、伝達手段に上に示したような制限があることが、区別の方法であるとしたら、そしてもしその制限を取り払うことができたらどうなるだろうか、この本はそう問いかけている。もはや相手の人格をあなた自身の人格と区別する根拠はかつてのような明快なものではないことになる。

実はこうした例は既に現実世界でも見ることができる。あなたが考えている物事のうち、あなたのオリジナルの考えはどれほどのものだろうか。あなたの思考はあなたがかつて読んだ本、かつてインターネットで読んだ記事、かつてタイムラインで見たツイートとどのように異なっているというのか。その文章を見たときのあなたは、自分の視覚によってかかる情報を得たことを根拠にそれを自分の持っていた考えとは別のものとして処理できる。だが、その本をいつ読んだのか、そのツイートはどのアカウントからのものであったのか、そういったディテールを忘れていくにつれて、書き手の考えとあなたの考えの間にある境界線は薄れ、やがてそれをどこかで見たことを完全に忘れたとき、境界線は完全に消え去り、あなた"自身"の思想を形成する一部となる。*2

ここまでは、「真のオリジナル」が存在しない、あらゆるものは何かの模倣であるといった、現代文の授業で散々見聞きした内容だ。では、情報伝達の手段が五感をバイパスすることが可能になったら、くだいて言ってしまえば人の心を直接"実感"することが可能になったらどうなるか。あなたに流れ込んでくる考えとあなた自身の考えを区別することも、あなたが誰かに流し込む考えと誰かが元から持っていた考えを区別することも、かつてと同じようにできるだろうか。

もしかすると、これはそれほど難しくないように思われるかもしれない。我々の考えは人それぞれで驚くほど異なるから、自分の記憶をもとに、そこから導き出されるには不自然な考えを自分のものではないと判断することができると考えることができる。しかし、この方法は、あなたの考えることがあなたの記憶に基づいていることを利用している。誰かの考えが流れ込んでくるとは、誰かの記憶が流れ込んでくることでもある。あなた自身の記憶とあなたに流れ込む誰かの記憶が区別できなくなったとき、あなたが誰かと違うことを担保するものは一体何だというのか。悪意ある存在が、マルウェアのように記憶ごと誰かの考えを送り込んできたとき、あなたは"自分"の人格を隔離したままでいられるだろうか。*3

都市と個人

冒頭で示したツイートのリプライツリーにもあるように、また作品のタイトルにもあるように、都市というモチーフに触れないわけにはいかない。

 

都市は様々なレイヤーで構成員に対し標準的でない生き方を可能にする。そうした生き方の具体例については今さら書く必要もないだろうし、端的にいえば、「地に足をつけない」生き方をすることが可能になるのだが、本作では、個人として生きることが田舎との対比で描き出される。すなわち、人間は社会的動物であると言われるように、集団を作ることで、より直截に書けば生殖により子孫を残し、人口を再生産することで、種として発展を続けてきた。都市において、また都市においてのみ、そうした前提は打ち破ることができる。

だが、都市での暮らしは違う。単独ではひ弱な、毛のない猿にすぎないヒトは、さまざまなものを創り出して劣った能力を補ってきたが、その最高傑作が、〈都市〉だ。それは田舎の延長である〈都会〉という概念とは異なる、ヒトがこの世に生み出してきた無数の人工物のなかの、最大にして、もっとも強力な〈機械〉のことだ。

—『ぼくらは都市を愛していた (朝日文庫)』神林 長平著
https://a.co/ciD8bhJ

あるいは我々は、まだ都市に住んではいないのかもしれない。東京が大都会であることには疑いがない。日本という国において、一千万人の人口を抱える街を田舎と呼ぶのは無理筋だろう。一千万という数字は東京が都会であるという事実を支持する上では十分すぎる。しかし、その事実から東京が〈都市〉であることを導くことはできない。

 

夜の東京、なかでも日付が変わった後の真夜中の時間帯に出歩いてみると、そこにはやはり人々の姿があることがわかる。終電が発車した後に鉄道の線路を点検する人々、車が減りひっそりとした大通りで照明に照らされながら工事をする人々、24時間営業の店舗で深夜帯のシフトに入る人々、そうした店舗からゴミを回収し、商品を届ける人々……。東京という街に再び日が昇ったときに変わらぬ機能を維持するために、彼らが不可欠なことは言うまでもない。本作において、都市はその構成員が独りで生きていくことを可能にする機械であるとされる。この定義に従えば、いまだ彼らの働きに依存している東京という街は都市たりえず、もし東京という街を都市であると主張するなら彼らを都市機能を維持するための機械にすぎないと主張して透明化せざるを得ないことは自明である。*4

ところで記事の冒頭で、少女終末旅行との関連を示唆していた。ここで一度その言及を回収しておこうと思う。

STORY|TVアニメ「少女終末旅行」公式サイト

(ここにあらすじが入る)

本作と少女終末旅行では、もちろん描かれている世界は大きく異なる。しかし、都市に対する捉え方において、少女終末旅行と本作では通底するものがある。すなわち、都市を、他の人間の力を借りずともそこに住まう人間の生命を維持する巨大な機械と捉えるものだ。そして都市は、いずれの作品においても戦乱によりその機能を喪失する。少女終末旅行では、戦乱により都市に住まう生き物はほとんどが死に絶え、都市は緩やかにその機能を停止していく。都市は自らの機能を維持する機構を持ち、少女終末旅行でチトとユーリが徘徊する都市の廃墟も、人間が消えてなおその機能を維持しようとしていることが随所から読み取れる。二人は都市の上層を目指し、旅を続ける。それはもしかすると、上層にはまだ人がいるかもしれない、あるいは都市の機能が十分に残っているかもしれないという可能性を見ているからかもしれない。仮に上層の都市が機能していたら下層にも来ているはずだ等といった議論は不要で、二人にとっては明日も二人で旅をできるなら、それだけで旅をする理由としては十分なのだろう。 

本作においても、都市はその機能を戦乱にによって喪った。デジタルデータのみが破壊される、便宜上情報震と呼称される現象は、高度にデジタル化した社会に対し極めて大きな影響を与える。こうした現象が、例えば敵国からのサイバー攻撃であると考えるのは実際最も自然な捉え方の一つといえる。そして、確証なくサイバー攻撃であるとみなすことによって戦火の端緒は容易く開かれ、なぜ始まったかも分からず、それゆえに終わらせ方も分からないまま、人々は死んでゆく。

本作と少女終末旅行の大きな違いの一つは、都市を待ち受けていた運命にある。少女終末旅行の作中では都市はほとんど破壊し尽くされ、もはや緩やかに死んでいくのを待つばかりに見える。あるいはチトとユーリ自身と彼女らが遭遇した二人の人間を群れることなく生存させる(させていた)程度の能力しか残されていなかったともいえる。一方本作では、戦乱が都市に与えた影響は明確ではない。綾田中尉の日誌によれば、人口は二十年前の4%にまで減少している。人間の文明社会においてこれほどの人口減少が壊滅的な打撃であることは疑いがない。一方、中尉は日誌で数多くのデジタル機器が文明を動態保存するものとしてかつての首都東京に避難させられていることも述べている。この状態で都市が生きているのかは難しい問題だ。本作の言葉を借りれば、少女終末旅行において都市は致死量の中性子線を浴びた状態に等しく、一方本作ではさしずめ植物状態といったところだろうか。死んでいるも同然ということもできるし、今後復活する可能性はまだ残されていると強弁することも不可能ではない、あいまいな立ち位置である。

私はここで、都市が生きている(あるいは生きていた)かのように書いた。都市が生きていると書く場合、普通それは比喩として解釈される。たしかに都市は我々が素朴に抱く生命のイメージとは似ても似つかない。都市は細胞を持たず、生殖を通した種の再生産もしない。同様に、異化も同化もまた直感的には行なっているようには見えない。この意味では都市が生きているという表現は比喩として捉えても差し支えない。本作はしかし、ここにもSF的疑問を投げかける。この疑問はすなわち都市が比喩でなく生きていると主張することに繋がるが、そうすると今度は都市がどのようにして生きているのかという疑問が生じる。答えはシンプルであり、やや姑息な感も無いではないのだが、都市を人間の観念が生み出したものとしてしまうことである。(ここ割とネタバレだし白文字にしたい)実態を持たない人間の観念が具現化したものとして都市を捉えることで、自己複製という生物としての根幹を達成していないであろう生命体を「創り出す」ことができる。観念上の存在である以上それは我々の意識に依存したもの、ある種の幻想や虚構ではあるが、我々がその幻想や虚構を盲信する限り、都市は存在することになり、「生きて」いることになる。

都市は我々が虚構を盲目的に信仰する限り生きている。自らのコピーを作らないという一見自然の摂理に真っ向から反するこの「生き物」は、しかし外界と自身を区別する境界を持たないのだろうか。我々人間が、そしてあらゆる生物がするように代謝をしないのだろうか。都市を生物と見なす場合、こうした疑問も当然に浮かんでくる。答えは否である。都市は我々の観念が生み出したものであり、それはすなわち我々の観念によって生かされていることである。本作ではこれを意識の流れと表しているが、本質的にはつまり我々が常に都市を「ある」と妄信することで初めて都市が存在するということだろう。

「都市があると信じるから存在する」というのは、繰り返しになるが姑息な説明という印象を拭いきれない。しかし我々が「ある」と信じているから存在することになるものは実のところ身の回りに溢れている。貨幣などその良い例であろう。特殊な意匠の施された金属の円盤や長方形の紙片は命がけの跳躍を経験することで硬貨や紙幣として金銭的な価値を持つ。本作ではそれを「マネー」と貨幣として書いている。マネーは実体を持たない観念だが、それが物理的な実在をもって具現化したものが貨幣だというのである。貨幣制度に対するこうした説明もまた、よくある議論ではあるが、これを都市といにも適用したのが本作の独創的なところである。

こう考えると、都市が戦乱によって破壊されたという事象も違った見方が可能になって来る。少女終末旅行においては明確な描写こそないが、明らかに都市が戦乱によって破壊された痕跡があるし、本作でもそうした説明はなされている。それを素直に解釈すれば、戦争によって、砲弾やミサイル、あるいは我々の未だ知らない兵器によって破壊されたと読むのが自然な読み方であろう。しかし、そうした破壊は、実のところ都市を生かしていた観念、そしてそれを担保していた人間を滅ぼし、その結果として都市が滅びたという読み方もできないだろうか。

都市が辿った運命は少女終末旅行と本作で異なることは既に書いた。もしかすると、この違いは都市を生かしていた人間がどの程度残っていたのかによるのかもしれない。少女終末旅行の世界では、都市を支えるだけの人間の観念が残らなかったから都市も死んでいくしかない。しかし、本作ではなんとか都市を支えるだけの観念を提供するための人間は残った。こう捉えることもできないだろうか。

情報と都市

本作のキーワードである情報震とは結局のところ何なのだろうか。デジタルデータのビットを乱すことでデジタル機器に影響を与えるものが情報震であるという。最初はビットの一部が反転するだけだったものが、やがてより広範囲に反転するようになったりビット全体がシフトするようになったりそれが組み合わさったりし、ついには我々の目にはまったくめちゃくちゃに乱されるようになる。

こう見るとなんとも不気味である。デジタル機器のビットを反転させるのに、他の部分には影響しない。既に書いたようにこれを敵対勢力によるサイバー攻撃とみることも無理からぬことだし、実際綾田中尉の情報軍兵士としての任務はそうした攻撃に対する警戒でもある。

デジタル化が進展した社会においてこうした現象が及ぼす影響は甚大である。社会そのものがデジタルデータであるといっても過言ではない。だからこそ、本作においてはデジタル機器を、情報震の影響が少ないかつての東京に集約した。

デジタル化が進展した社会においては、附随するテクノロジーの発達に伴って疑似的なテレパシーのようなものが可能になる。この状況において、人格が溶け合っていくことは既に書いた。人格が溶け合っていき、人々の意識は統合されていく。いわゆる集合的な意識が形成されていくのであった。

デジタル化社会において、我々のコミュニケーションもまたデジタルデータによって媒介される。中尉が利用するボビィという通信端末もそうした一例の一つである。情報震は従って、このボビィによるコミュニケーションにも影響を与えた。こうした状況をどう捉えるべきだろうか。

我々の常識のに照らして考えれば、正体は不明ではあるが、デジタルデータのビットを反転させる「情報震」と呼称される現象によって全世界のデジタル機器が影響を受けており、ボビィもまたデジタル機器であるためにその影響を受けたということになるだろう。それは実際、中尉の認識でもあった。

しかしこの認識は、不十分である。人格が、意識が、デジタルデータとしてやり取りされるようになり、その結果として統合されていく、この時、かかる意識はデジタルデータ、すなわち情報である。情報であるということは、情報震の影響を受けるということである。

情報化の進展に伴って我々の意識までもが情報にされた、あるいは我々が意識を情報として取り扱う手段を手に入れたことで、我々の意識は情報としてデジタルデータと同様に情報震の影響を受けるようになったのだ。

我々の意識が統合されたとき、その情報量はどれほどのデータサイズになるのだろうか。テラ、ペタ、エクサ、ゼタ、ヨタと続いて、つい最近ロナとクエタが新たなSI接頭語として2022年11月の国際度量衡総会で提案される予定である。私には到底見当もつかないが、きっとこうした接頭辞でも表しきれるかといったほどのものではないだろうか。

こうした途方もないような量の情報が、あるいは意識が統合された結果、人間の手に負えなくなった。まるで核分裂が臨界に達するように、統合された意識が破壊的な暴走を始めた。そうした暴走は、人間同士のコミュニケーションに影響を与えたのだ。本作の表現を借りれば、疑心暗鬼という誰もが心に飼う鬼によって、この情報の爆発は戦争という形をとって現実世界に噴出した。それは見方を変えれば、統合された意識が暴走しているのだから、サーバーの輻輳トラフィックの制限で対処するように、統合された意識にアクセスする人間を減らすことで暴走を鎮めようとした。その手段がNBC兵器のような大量破壊兵器の使用を伴うことには何ら疑問はない。目的に対して最も効率的な手段だ。だから、この統合された意識こそが「震源地」なのだ。

解釈はどうあれ、人格の統合、意識の統合が進んだ結果、統合された意識が暴走し、暴走を収めるために人間の物理的な数を減らすことで、すなわち殺戮によって集合的な意識へのアクセスを制限する手段を選んでしまった。通信機能が失われたスマートフォンはオフラインで保存されたコンテンツしか確認できない。同様に、人類の集合的な意識が暴走し分裂したとき、人類にとれる手段は、その分裂した意識のどれかにアクセスするか、あるいはまったくアクセスしないしかない。

これは都市にとってどのような意味を持つだろうか。都市にとって人々は不可欠だ。その理由はもはや非常に明快で、都市の存在は人々が虚構を盲信するからだ。都市を「観念的」に支える人々が失われることは都市の存立そのものを危機に陥れる。都市は人々が存在すると能動的に意識することによって存在する。都市にはデジタルデータが蓄積されており、そこからかつていた人々の意識を再現することは不可能ではないだろう。しかし、それでは能動的に意識したことにはならない。人々の意識は相互に絡み合い、有機的に時間発展していく。この中で虚構を信じるという意識のダイナミクスが可能になる。だから、都市は自らの存立を確保するために何らかの方法でこの意識のダイナミクスを担保する必要が生じる。

都市を愛していた者

都市が存在し続けるために、1000万を超す人間の意識のダイナミクスを駆動する—都市はこれをできる人間を見つけた。綾田カイムだ。彼は都市を愛していたし、彼が愛していた人もまた都市を愛していた。都市は彼らに独りで生きる場所を与えていた。だから、彼はかつて愛人が気に入っていた都市を守ろうとした。都市はそれに応えたのかもしれないし、都市の方からコンタクトをとったのかもしれない。いずれにせよ、この関係は綾田カイムと都市の共犯関係である。

こうして都市の存立は維持されていたが、あるときそれを揺るがす事態が発生してしまった。都市の存立の前提となる観念を持たない、虚構を虚構と看破した人間が都市に入り込んでしまった。都市はそこで、綾田カイムの人格に悪意を持って介入し、闖入者を殺害させた。それはまさしく、人格の統合によって可能になってしまった手法だろう。

だから、この行為の責任を問うのは一筋縄ではいかないし、情状酌量の余地もある。ともかく、これは都市の犯した失敗だった。綾田カイムは自らの行為を認識し、ショックを受け、人格を分裂させたような状態に陥った。意識のダイナミクスを駆動する装置としての綾田カイムが不調になり、都市の意図にそぐわない動きを始める。これはまるで人間の側が犯した失敗を都市がなぞっているようにも見える。都市はどこまでも人間の観念に依存した虚構であることを意識せざるを得ない。

しかし、綾田カイムと彼の愛人は共に都市を愛していた。だから、彼は都市の失敗を、あるいは自身に対する背信ともとれる行為を認識してもなお、意識のダイナミクスを駆動する装置を続けることを選んだのだろう。そういう意味で、本作の主人公は綾田カイムであるということができる。究極的には彼の愛人への想いが都市という巨大なマシンを動かし続けていたし、これからもしばらくは動かし続けるからだ。彼らは都市を愛していたのだ。

補遺・終わりに

本作で外部から都市に侵入し、綾田カイムに殺害された情報軍兵士の名前は政谷きららである。この人物は綾田カイムによって柾谷綺羅という人物に書き換えられるのだが、このきららという名前はかなり珍しい名前のように思われる。綾田中尉の小隊が全員女性ということもあり、まんがタイムきららから持ってきていたりするのだろうかといったことを考えてしまった。だとすると、著者の何らかの思想を感じないこともない。

また、本作の冒頭に女子高生がケータイのキーを親指で打つという描写がある。本作は2012年に発売されたもので、2020年を未来のこととして描いているらしき描写もある。2012年といえば、iPhone 5が発表されていた年であり、中高年はともかく高校生が未だにガラケーを使うというのは奇妙に思える。これを著者がガラケーユーザーだったからそう描写したととることもできるが、綾田カイムが政谷きららを殺害後に人格を分裂させ過去の記憶に逃避した中で、初老を過ぎた彼の慣れ親しんだ携帯電話端末がガラケーだったからと解釈することもできそうだ。そうすると、読者は冒頭から既に著者の術中に嵌っていることになる。

一方2012年というのは言わずもがな東日本大震災の翌年のことである。あの頃のことを思い返せば、情報が氾濫していた。我々の日常はまるで情報震のように揺さぶられた。違うのは、こうした「揺れ」が人為的に起こされていたことである。今、我々はあいも変わらず情報の洪水の中にいる。情報爆発の時はそれほど近くはないだろうが、非現実的なほどに遠いわけでもないのかもしれない。

ところで、本作はもう一つ重要な問いかけをしている。我々は意識を持って世界を認識していると考えるが、この意識は綾田カイムのような人間が投影したものではないのだろうか。その根底には次のような考えがある。

真の世界とは、人間の感覚や理解を超えて広がっていて、そこには、因果関係も時空も物質もエネルギーもない、あるいはそれらがみんなごったまぜに存在する、混沌の場で、わたしたち人間は、そのごく一部を意識し、意識することで、いわゆるわたしたちの小さな〈現実〉を生み出し、その仮想的な世界、真の世界とはかけ離れた、遠いところで生きている』のだ

Flash黄金時代、脱出ゲームを中心に作品を公開していた脱出ゲーム MOFUYAというサイトがある。当時の私は狂ったようにこのサイトのゲームを遊んでいたのだが、このサイトが公開している作品の中に、THE EARTHという日記形式の短編小説がある。我々が巨大なプログラムによってシミュレートされている存在に過ぎないのではないか、といった話だ。今振り返ればおそらくセカイ系に分類することのできる内容かもしれないが、読んでいて子供心にえも言われない思いを抱いたのを今も覚えている。

本作も描いているものの一面はこれとよく似ている。我々は実体を持っているのだろうか。仮に我々が綾田カイムによってシミュレートされた存在だとしても、我々はそれを認識することができない。このシミュレーションでは認識することができないことが重要だからだ。Cogito, ergo sumとはよく言ったものだが、そこで考える主体が綾田カイムであった場合、それを我ありとするのは私の直感には反する。*5

あなたは、実体を持っているのだろうか、それを証明できるのだろうか。証明することはできないが、それで良い。あなた自身が幸せを感じるのであれば、それで良いのだ。人間讃歌的な思考がそこにはある。

*1:本作の筆者、神林 長平の作品の中には「戦闘妖精・雪風」シリーズがある。私はSFのことは全然知らないが、そんな私でも名前程度は知っているものなので、彼はおそらくSFファンなら誰でも知っている作家だと思う。

*2:それはこの記事も例外ではなく、私自身今書いていることが本作を読む前の自分の考えなのか本作を読んだ後に感じた・考えたことなのか、記憶を頼りに区別しようとしているが、これはかなり面倒で労力を割かれる。

*3:情報化社会は私たちの人格を融解させる坩堝であり、テクノロジーはこの坩堝を加熱している火と言えるのかもしれない。ある時点までは坩堝の中身を柔らかくするだけだった火も、やがて火勢が強まれば中の固体を溶かし始め、ついには溶岩のように混然とした粘度の高い液体のみが残るようにも思われる。

*4:この事実はまた、本作をSFとして分類できることの根拠の一つでもある。作中のトウキョウは、我々の知る東京とはここまで述べた点で明確に区別されており、「東京」という語は一度しか、それもかつての首都東京という形でしか出てこない。Kindleはこういった検索もすぐにできるのが便利。

*5:もっともそれこそが我ありという表現の真髄かもしれない。