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夢の境界

子供の頃のある時期、連日悪夢を見ることがあった。

空が黒く塗りつぶされた世界で何かに追いかけられる夢だった。何に追われていたのか、今ではよく分からない。ただ、今日も眠りにつくたびに何かに追いかけられると思うとどことなく就寝するのが嫌になった。

 

夢というものは、とにかく奇妙だ。夢の中ではどれだけ現実離れした出来事が起きても、その非現実性に気づくことはない。空を飛んだり、全く知らないはずの場所を訪れたり、親しい友人が全く別人に変わっても、夢の中ではそれが「普通のこと」として受け入れられてしまう。

目が覚めて初めて、「あれは夢だった」と理解する。さらにその時になって初めて、夢の中で体験した出来事が現実には起こりえないと認識される。この「夢を夢として認識する」という行為は、現実性についての新しいレファレンスを得た瞬間ともいえる。

だが、このレファレンスは根拠に乏しいとも言える。夢と現実を区別する際、夢から醒めた後に得た「現実感」をもとにしているだけだからだ。つまり、夢を非現実と判定する基準自体が、自分の見ている現実を絶対的な、いわば100%の現実性を基準としているにすぎない。これ自体は相対評価をする以上当然なのだが、ではなぜ100%と見なせるのか、さらにその根拠まで考えていくと、私が体験の蓄積をもとにそう考えているからという答えになってしまう。私の体験が現実的であるかを判定するのに、私自身の体験に基づいた現実性のレファレンスを参照している。この構造は自己参照的であり、外的な要因によって容易に揺らぎうる。

現実性の揺らぎ

一つの例として、私のレファレンスが破損して、神の視点から見たときに今までのレファレンスとの比較で現実性が70%まで落ちたとする。夢と現実の区別が少し怪しくなった状態といえるが、この状態でも体験の現実性が完全にランダムなら、私はある体験の入力に対し7割の確率で夢と現実を判別できる。

7割という値は一見悪くないように思われるかもしれないが、ここでの問題は判別自体が判別基準に影響を及ぼすことである。7割の確率で入力される夢はそのまま夢として切り捨てられるが、3割の確率で混入する、「現実と判定された夢」は、神の視点から見れば、当然だが判別の閾値となる現実性を下げる方向に作用する。

次回の判別ではより高い割合で夢が現実と誤認され、閾値が再び書き換えられる。こうした負のフィードバックサイクルが繰り返されれば、最終的には夢と現実の区別がつかない状態に漸近していく。

もちろん、我々は実際に夢と現実の区別がつかないなどという状態になることはふつうない。意識のある時に常に触れている現実により、分類器は絶えずキャラプレートされ、閾値は100%に十分近い値で補正され続ける。時々非常にリアルな夢を見ることもあるが、そのような場合でも閾値は一時的に下がることはあってもすぐにキャリブレートされる。

問題となるのは、このキャリブレートがうまくできない場合である。妄想が妄想ではなく現実として認識される状態になると、もはやキャリブレートによって閾値を100%近くまで回復させることは困難になる。自己参照的構造の脆弱性が露呈した形である。

人見はそういう状態にあるものとして描かれていたように思う。現実性の判別機能が壊れた彼は、もはや自分の認識している世界が現実かどうか判断できない。時に気まぐれのように正しい認識が与えられても、既にセンサーが壊れているので非現実的であるとして切り捨てられる。

明確に誰かが悪いということではなく、それぞれの歯車が少しずつ嚙み合わなかった結果、最後には悲惨な結末が待っている。子供の頃連日悪夢を見ていた時のような、不快感とも異なった、なんとも言いようのない不気味さが残る作品だった。