金と玉

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いらすとやより


タイトルだけで下ネタと思った人は反省してほしい。このタイトルはキンタマでも金玉でも金の玉でもなく、「金と玉」だ。

東京大学の五神真総長は平成28年度の学部入学式における総長式辞で、次のように述べられている。

ところで、皆さんは毎日、新聞を読みますか? 新聞よりもインターネットやテレビでニュースに触れることが多いのではないでしょうか。ヘッドラインだけでなく、記事の本文もきちんと読む習慣を身に着けるべきです。

(『平成28年度東京大学学部入学式 総長式辞』より) 

 五神総長は間もなくその任期を終えられるが、キャッチーな見出しだけでアクセス数を稼ぐような記事やフェイクニュースが蔓延するこの時代、今一度この言葉を思い返してもよいのではないだろうか。

 

さて、金と玉といえば、もちろん将棋の話である。昨今の将棋AIの進展は目覚ましく、計算能力の発達とアルゴリズムの改良により、プロ棋士との対局に勝利するのも珍しいことではなくなってきた。既にチェスでは人間と肩を並べる程度にはコンピュータも進化しているとされているが、これからは将棋AIもさらに発展していくのだろう。

また、このところ将棋人口は減少が続いているが、最近は羽生善治九段や藤井聡太二冠などのプロ棋士もメディアに多く露出し、話題になっている。コロナ禍で在宅の時間が増えたことも、結果としては人気を後押しできるかもしれない。将棋界の今後にも要注目だ。

 

先日の対局でも、藤井聡太二冠が「神の一手」とも呼ばれるほどの妙手で戦局を一気に引き寄せて勝利を掴んだ。

news.yahoo.co.jp


【41銀】竜王戦で出た神の一手を解説します【藤井聡太vs松尾歩】

なるほど確かに、この局面で飛車を取らずに(タダで)銀を献上するのは一見して悪手のようだが、その実見事に勝利への突破口となっている。まさに妙手と呼ぶに値する一手だろう。今後のさらなる活躍に注目だ。

 

 

 

 

 

そんな藤井聡太二冠に注目しているのは、最近腹の段位だけは昇段できそうな異常独身中年男性。

「藤井の活躍とコロナ禍での在宅時間の増加を踏まえれば次に来るのは将棋」

と、もうすぐ四段になれそうな腹をピシャリと叩いて向かった先は近所の公園。まずは足元からと、ある秘策とともに、平日の昼間から指している老人たちに早速対局を申し込んだ。

双方20枚の駒を並べていざ対局が始まろうとしたその時、彼が盤から金を取り除く。駒落ち自体はハンデとしては一般的だが、金を落とすのは聞いたことがない。一体どういう意図なのか。すると、突然彼はズボンのファスナーを下ろし、手を突っ込んで何かをまさぐったかと思うと、自らの金を並べたではないか。

これこそが、彼の秘策であった。最近では見かけなくなったが、かつての将棋では盤外戦も戦術のうちという風潮の時代があった。現代では卑怯と言われようと、盤外戦も最大限に活用しようというわけである。

彼の脳裏に中学校での日々が蘇る。所属していた部活は将棋部。級友と毎週月・水・金曜日の放課後に対局していた。あの頃は、くだらないことでも思い切り笑うことができた。

ある日、部員が自らの股間にセロハンテープで金と玉を2枚ずつ貼り付けたのを見て、顎が痛くなるまで笑い、直後に部室を見に来た顧問に見つかった。連帯責任で翌週は活動禁止になり、貼り付けていた本人は1ヶ月活動禁止になった。

「今一度、原点に戻ろう。」

彼は考える。

金と玉は実際の盤面でも隣り合っている。だから、金2枚と玉を金玉金と貼り付けるだけなら、あの時部室に来た顧問に盤面を再現しているだけということもできた。同じように考えれば、盤面に自身の金を並べても駒を並べているだけと言い張ることも可能だ。対局中に金玉を出してはいけないというルールもない。幸い、盤の大きさも駒のサイズに合っている。これを活かさない手はなかった。

果たして彼の盤外戦術は、ある程度有効であった。駒と盤の立てるパチパチという音に混じって金が動く度にペチャリという音が鳴るのは確かに相手の集中を削いだし、駒から毛が生えていて時々うねるために、金を玉のそばに置いておけば深層心理で相手は近くに駒を進めることを躊躇ってしまう。加えて、相手の目の前で中腰になるためにやや見下ろす形になり、威圧感も与えられる。必然、防戦気味になる相手に、序盤、中盤と果敢に攻める。駒たちが躍動し、金は脈動していた。

しかし、そもそもこの戦法がプロでも通用するなら、ルールでも禁止されていない以上は盤外戦術全盛期には対局中に金玉を出す棋士がいてもおかしくないはずだ。にもかかわらず、公式戦ではそのような棋士は存在しない。この戦法にはある弱点があったのだ。

終盤、彼の額に汗が滲む。長時間の中腰に足腰が悲鳴を上げ始めると快進撃もここまで。足腰の辛さに勝ち筋を見逃すミスが相次ぎ、それが対局を引き伸ばしてしまう悪循環。最後は我慢できずに一旦腰を上げてしまったところ、これが二手指しとの判定で反則負けに。通行人からの通報で駆けつけた警官に「金で玉を囲っていただけ」「金と玉でキンタマを考えない方がおかしい」と弁明するも、警官は「金銀3枚が囲いの基本だぞ」「相手が金を取ったら文字通り致命的なダメな戦法」とこれを一刀両断。策士策に溺れる結果となった。

 

以上

春の雨に思うこと

朝の寒さにコートを着て外に出ても、昼の陽気にシャツ一枚でも少しだけ汗ばむことも増えてきた。桜はいよいよ盛りを迎える頃だ。春の嵐で散っていないことを願うばかりである。

 

 前日の夜遅くから降り始めた雨は、夜になっても中々弱まる気配を見せなかった。

昔から雨は好きではないが、雨の中を歩くのは傘に当たる雨の音が聞けて嫌いではないから、御徒町まで足を伸ばすことにした。夜の不忍池は人通りもなく、街灯が照らす水溜りに波紋がいくつも広がっていた。

ふと、向こうから誰かが歩いてくるのが見えた。スーツに傘を差し、今となってはやや古臭い中折れ帽をかぶっている。離れている時は酒にでも酔ったのか、何か言いながら奇妙な動きをしているだけのように見えたが、近づくにつれて彼の言葉はリズムを持って聞こえてきた。まだ雨は降り続いているのに、まるで雨上がりの空を見上げるように傘を傾けて手を広げ、そのまま傘を畳む。

一瞬、どうやってやり過ごすべきか考えたが、この手の人間はこちらが刺激しなければ案外無害なものだ。私は黙ってそのまますれ違うことにして、傘で少し顔を隠すようにして歩みを速めた。一歩ずつ、着実に近づいていく彼との距離。近づくにつれて、彼の動きは奇妙ではあるが決して不規則ではなく、歌のリズムに見事にマッチしているということがわかってきた。

ところで、不忍池のほとりには、3段ほど高くなったウッドデッキがある。ベンチもあり、昼間はここから池を眺めていると、たかが3段といっても中々いい眺めである。今、前からステップを刻みながら歩いてくる男は朝の日差しを浴びるように全身で雨を浴びている。このペースで行けば、ちょうどこの先のウッドデッキの前でそのまますれ違うことになるだろう。

この予想は、実のところ半分だけ正解だった。確かに私たちのペースは変わらず、ウッドデッキの前に同時にたどり着いた。だが、そのまますれ違うことはなかった。彼がやにわにデッキに上り、そのまま踊り始めたからだ。完全に想定外の動きに、私は思わず足を止めてしまった。

彼のステップに合わせて、雨で濡れたウッドデッキはこもった音を響かせる。ただ地面を照らしていただけの街灯は、今や舞台を照らすスポットライトだった。私はあまりにも楽しそうな彼の様子に足を動かせずにいた。

おもむろに上着に手が伸び、ワイシャツに手が伸び、さらに、ベンチを器用に使って全体の流れを損なうことなくズボンも脱いでいく。歌とダンスはともかく、あっという間にパンツだけになったその手際は、ただただ見事と言うしかなかった。

「これから、どちらへ行かれるのですか。」

彼がひとしきり歌い終えてから尋ねると、彼は変わらず楽しくて仕方がないといった笑顔で一言、交番、とだけ残してまた歩き出した。

しばらく呆気にとられていたが、せめて脱ぎ捨てられた服と傘は届けようと思い彼の上着を拾い上げた。ポケットには何も入っていないのか、かなり軽い。そのまま軽く畳もうとすると、ポケットから一枚のメモが舞い落ちた。メモには、

「野に出でゝ写生する春となりにけり」

と子規の句が一句だけ書かれていた。予報では、雨は間もなく上がることになっていた。私は服の上に傘を開いて置いてやり、御徒町まで歩き始めた。

 

以上

桜の開花に思うこと

桜の花はしばしば大学入試の合否を表す際にも使われ、「桜咲く」といえば合格、「桜散る」といえば不合格を表す。最近は桜の開花が入学式の時期から卒業式の時期に早まってしまったと嘆く声を聞くこともあるが、この使い方からすればむしろちょうどいい時期ともいえるのかもしれない。

冬の寒さに備えて葉を落とした木々は未だ葉をつけず、時々吹く風に思わずコートのボタンを閉めるが、同時に日なたには柔らかな日差しが降り注ぎ、冬を乗り越えた桜の花が開き始める。上野公園でも、一株だけ開花した桜の木の周りに多くの人が集まり、カメラを向けていた。

桜の花が象徴するのが入学式でも卒業式でも、桜とともに今までの生活が終わり、新しい生活が始まる。

コロナ禍で失われたものは多かったが、一人の学生にしてみれば恩恵もまたゼロではなかった。最たるものはオンライン授業であろう。自宅で授業を受けることができ、しかも録画を後から見返せる。加えて授業中でも質問をしやすい。おかげで勉強はなんとかついていくことができた。

そしてもう一つは、キャンパスが静かになったことだ。大学は本来開かれた場所であるべきだという主張とは相反するところがあるかもしれないが、やはり観光客がほとんどいないキャンパスは静かで過ごしやすいし、座学の授業は原則オンラインだったので学生も少なく、食堂で空席を探して歩き回る必要もない。この点は実習で大学に来る理系に進んでいてよかったといえるだろう。

人が少ないと、キャンパスをあちこち歩き回ってみたくなるものである。キャンパスの建物はもちろん基本的には同じ学部・学科の建物どうしが集まっていて、単に授業を受けに来るだけだとどうしても門と特定の建物の往復だけになりがちであるが、実際に歩き回ってみると新しい発見もあるし、思わぬところで道がつながっていることもあり、頭の中でキャンパスの地図が進化していくのはなかなか楽しい。

中でも特に気に入ってるのは、やはりというべきだろうか、三四郎池だ。池の端にひっそりと置かれているベンチに腰掛けて、静かに水面を見つめていると、それだけで思考が研ぎ澄まされていく気がする。(もちろん気がするだけで、実際にはそんなことはない。)

それから、この木と水の感じ(エフェクト)がね。―たいしたものじゃないが、なにしろ東京のまん中にあるんだから―静かでしょう。こういう所でないと学問をやるにはいけませんね。近ごろは東京があまりやかましくなりすぎて困る・・・(夏目漱石三四郎』より )

 水面に映る木々も良いが、時々吹く風にさざ波が白く光るのもまた良い。しばらくそうしていると、ぼんやりとした考えが頭に浮かんでくる。

 

そういえばと、啓蟄はちょうど今ぐらいの時期だったことを思い出した。春になると変質者が出るようになるという話を聞くに、冬の間私たちが何気なく踏みしめていた土の下には、リスかモモンガのように全裸中年男性が静かに冬眠をしていたのかもしれない。人気のない夜、突如土が盛り上がり、中から出てきた全裸中年男性は、まだ水の冷たい三四郎池で沐浴をして土を落とし、春の訪れとともに夜の街に消えていくのだろう。

 

 

以上

とらドラ!の感想など2

前回

comb.hatenablog.jp

少しだけ書き残していたことがあるので書いておく。

あだ名と自己評価について

逢坂は高校では「手乗りタイガー」というあだ名で広く知られている。これは逢坂の体格と粗暴さ、また逢坂の名をもじってつけられたもので、確かに逢坂の体格は少なくとも豊かとまではいえない。また、逢坂は当時北村に思いを寄せていたが、誤って北村に宛てた手紙が高須に渡ったことに気づいた。この事実を知った逢坂は本作の序盤で深夜に木刀を持って高須の住居に侵入し、これを発見した高須に対し持参した木刀を突き付け、さらに高須の住居の壁に木刀を突き立てて穴を空けている。これらの点を考慮すれば、「手乗りタイガー」というあだ名は逢坂の特徴をよく表したものといえる。

一方で、逢坂本人は「手乗りタイガー」というあだ名に対してコンプレックスを抱いている。これは一つには体格が劣っていることによるものであるが、逢坂本人は自身を不器用であると認識していて、「タイガー」というあだ名から想起されるイメージにはそぐわないことも理由である。後者の理由については、作中でも気にしつつもなかなか表に出すことができないでいることが、逢坂の口から明かされている。

つまり、逢坂は「手乗りタイガー」というあだ名に対し劣等感を抱き、また自身の本来の姿と乖離している面もあるが、この状態を解消することができずに「手乗りタイガー」という他者からの評価に甘んじ、これにふさわしい言動をしようとしている。周囲が自分に何らかの振る舞いを求め、自分がそれに応えるというのは「キャラ」のようによくある話ではあるが、他者の自身に対する評価を自分自身の自身に対する評価と明確に区別することができずにコンプレックスを抱えているという点では、逢坂は自己評価についても他者に依存しているといえる。

逢坂が転校した理由について

この問題を解決しようとしたとき、逢坂自身が(高須の通う)高校で何らかの行動を起こすのはあまり良い結果をもたらさない可能性がある。逢坂は「手乗りタイガー」という周囲からの評価に適合するように行動しているため、何らかの行動を起こしたところでそれが周囲からの粗暴な印象を強化するだけに終わる可能性もあるからだ。

結局、逢坂の側で他者からの評価と自己評価を明確に区別し、「手乗りタイガー」という評価を他者が自分に求めるキャラとして受け入れるのが現実的な選択肢となる。しかし、自己評価を他人からの評価と区別することができていない状態ではこれは難しい。一度「手乗りタイガー」という他者からの評価を受けることのない環境に移ることで、この評価はあくまでも他者からの評価であることを認識する必要がある。その手段が転校だったと考えることもできるかもしれない。

逢坂の成長について

人間の成長は即自→対他→対自という過程を経るという話がある。子供は他者との関わりの中で自分が他者と異なることを理解し、さらに成長することで自分をいわば俯瞰して見ることができるようになるということと理解しているが、*1この理解に基づくと逢坂は対他から対自への移行に問題を抱えていると見ることもできる。この問題点は、終盤に逢坂の周囲の人間が少々強引に逢坂を自分の気持ちに向き合わせることで解決するが、こうして対自の状態になれたことで自己評価を他者からの評価と区別することができるようになり始めたと考えれば、これも逢坂が転校することを選んだ理由といえるかもしれない。

 大人と子供の境界について

 

本作の終盤でお互いの思いを確認した高須と逢坂は、駆け落ちをして高須の18歳の誕生日を待って結婚しようと決意する。高校生が駆け落ちというのはいささか非現実的で、結婚すれば大人という認識も稚拙に思える。それでも、高須の母親の泰子が認めているように、駆け落ちして周囲の助けを借りながら行動する二人はたしかに成長していた。

また、泰子も一見して子供っぽい性格で、生活面では息子が家事全般をこなすなど、「大人」という印象はなかなか生じない。一方で高須の将来を案じて自身が倒れるまでアルバイトをし、高須が事故にあったという知らせを聞いて実家に駆け付けるなど、親としての責務を果たそうとしている姿勢は読み取れるが、これは終盤に至ってのことである。

「大人」と「子供」は連続的で相対的なのかもしれないと思った。

 

以上

*1:間違ってても怒らないでください

ポケットモンスターダイヤモンド・パールのリメイクに思うこと

ポケットモンスターダイヤモンド・パールのリメイクが発表された。ニンテンドーDSで最初のポケモンシリーズである。灰色で、今思えば少々ぼってりとした質感のゲーム機に、懐かしい思い出のある人も多いだろう。

また、ダイヤモンド・パールは今年で発売から15周年。当時10歳だった子供は25歳になる年だ。就職と同時に一人暮らしを始め、大変ながらも社会人生活を送り始めた若者が、会社から帰ってきてプレイすると、そこには(ハードが変わり、グラフィックが変わっても)あの日見た景色が広がっていると思うと、絶妙なタイミングに思えてくる。

本作はSwitchでの発売で、私も今までメジャーなタイトルが出るたびにSwitchを買おうか悩んでは、「でも遊ばないしなあ」という理由をつけて購入を見送ってきたが、今回ばかりは購入を検討しはじめたところだ。発売は2021年冬とのこと。それまで続報を待ちたいと思う。

 

 

 

そんなポケモンリメイクの報に接して感慨に浸っているのは、若者だけではなかった。

人気のない深夜の公園。外灯の明かりもほとんど届かない場所で、ぼんやりと光るスマートフォンの画面が、持ち主の男の顔を、辛うじて表情がわかる程度に照らしていた。

15年前、小学生だった子供のクリスマスプレゼントにと初めて買い与えたゲームソフト。仕事から帰ると暖かい家で待ってくれていた妻と子。厳しいながらもやりがいのあった仕事。ほんのささいなきっかけからドミノ倒しのように多くのものを失ってもなお、かつての記憶だけは失われずに残っていた。

男は赤黒く日に焼けて皺が深く刻まれた顔で、しばらく画面をじっと見つめていたが、

「15年、か。」

やがて捻り出すようにそうつぶやいて画面を消した。

 

翌月曜日、昼過ぎ。都内某所のオフィス街では、昼休みを迎えた労働者が行き交っている。その中に、じっと佇む男の姿があった。ホワイトカラーの労働者とは言い難い風貌の男。だが、周囲は気に留めることなく歩いていく。

男は禿げた頭をピシャリと一度叩いたかと思うと、突然、目を見開いて叫んだ。

ブリリアントダイヤモンドに対抗して、ブリブリブリリアントダイヤモンド!」

突如下着を脱いでその場にしゃがみ込み、茶色いアクアジェットを吹っ飛ばす男。呆気に取られる周囲の人々。周囲がひるんで行動できない隙に男が取り出したのは2枚のうちわ。印刷は色褪せて穴も空いているが、かつてコラボした航空会社のものだ。男のきりばらいが決まり、周囲の人々も堪らず距離を取る。こうかはばつぐんだ!これに調子づいたのか、さらに

「これがワシのポコモンじゃ!」

そう叫んで男が露出した陰部は黄色く塗られ、顔のようなものが描かれている。ねずみポケモンのアイツのつもりなのか、男は陰部を手で生き物のようにうねらせ、裏声で鳴き真似をしている。素人がやっているにしては中々のクオリティだ。誤算があるとすれば、寒さに縮み上がったせいか、顔がしわくちゃになって渋いおっさんみたいになってしまったことだろう。これではまるでどこかの名探偵だ。

 

だが、たとえ不屈の心を持っていてもバトルはいつだって甘くない。

周囲からは「サウスパークが1999年にチンポコモンネタをやってる*1からポコモンはとっくに既出」「頭の輝きはシャイニングパール」「あなをほる覚えるしどちらかというとダグトリオ」との指摘が飛び、間もなくして通報で駆けつけた警官が男を取り押さえる。男もロッククライムで抵抗を試みるも、警官がはがねタイプだったため効果はいまひとつ。あえなく御用となり、ひみつきちではなく留置場へと向かうこととなった。

 

後に残された人々はまた何事もなかったかのように人の流れを作っていく。おそらくほとんどの人は、一人の異常な男のことなど数日後には忘れていただろう。だが、ワクワク気分を取り戻した彼が去り際に見せていた笑顔を私は忘れない。

 

以上

*1:

ja.wikipedia.org

dic.pixiv.net

日本では未放送。インターネットには日本語字幕つき動画も上がっている。

とらドラ!の感想など

とらドラ!というアニメを見た。きっかけは以下のツイートに寄せられたリプライである。

 全25話で見応えがあり、ストーリーもしっかり面白かった。勧めていただいた方、ありがとうございました。

作品について

概括

公式サイト*1に記載のストーリーは以下の通りである。

生まれつきの鋭い目つきが災いして、まわりには不良だと勘違いされている不憫な高校2年生・高須竜児は、高校2年に進級した春、新しいクラスで1人の少女に出会う。 彼女は、超ミニマムサイズな身長の美少女でありながら、ワガママで短気・暴れ始めたら誰にも手が付けられない通称"手乗りタイガー"と呼ばれる逢坂大河であった。 そして放課後、竜児は誰もいない教室に1人残っていた"手乗りタイガー"のある一面を知ってしまう・・・。 竜虎相打つ恋の共同戦線、超弩級のハイテンション学園ラブコメディーここに始まる! 

 本作は電撃文庫より2006年から2009年にかけて刊行されたライトノベルを原作とし、2008年10月から2009年3月にかけて放映された作品である。上に引用したあらすじからもわかるように、作品自体は「学園もの」と「ラブコメ」の王道的な展開であるといえる。主たる登場人物についても、いずれも特徴的なキャラクターがしっかりと表現されていて、クラシックなライトノベル(的)作品といって差し支えないと思う。

キャスティング等について

本作のヒロインたるキャラクターである逢坂大河(あいさか たいが)の声優は釘宮理恵である。釘宮理恵といえば「アイドルマスター」シリーズの水瀬伊織や「ゼロの使い魔」のルイズなどに代表されるように、2000年代から2010年代までの「ツンデレ系」キャラクターの象徴ともいえる存在である。

この「ツンデレ」については、2006年のユーキャン「新語・流行語大賞」には「ツンデレラ」という語がノミネートされている*2から、2000年代後半には「ツンデレ」がある程度人口に膾炙しつつあったと考えることができる。

これらを踏まえると、本作における逢坂も「ツンデレ」に分類することも不可能ではなく、実際作中でも「ツン」に相当する部分と「デレ」に相当する部分を見てとることができ、そうすると、本作は「ツンデレ系ヒロイン」の流行という時代背景を色濃く反映したものということもできるかもしれない。

時代背景について

本作が2000年代の「ツンデレ系ヒロインの流行」という時代背景を反映しているかについては、上で挙げた根拠はキャスティングやヒロインの描写程度であり、強力とは言い難い。一方で、本作が2000年代の時代背景を反映しているということは明白であるといえる。例えば作中では携帯電話が登場するが、もちろんいわゆるガラケーであり(日本でiPhone3Gが発売されたのが2008年である)、他にも「デコ電」や「チョー〇〇」のような、聞かなくなってかなり久しい語がしばしば出てくるし*3、これらを無視してもどことなく「少し古いアニメ」という印象を抱かせる。この印象の出どころはそれこそ「ツンデレ」ともとれるキャラクター、瞳の塗り方のような細部の描写、主たる登場人物の一人である川嶋亜美(かわしま あみ)の髪型、さらにはOPまで、随所に今となっては時代を感じさせる片鱗が散りばめられている。

ストーリーやキャラクターについて

冒頭でも書いたが、本作はストーリーも面白かった。いわゆる「学園ラブコメ」としてしっかりとした骨があるが、飽きることがなく、各回が終わるごとに次回を見るのが楽しみだった。

キャラクターに目を向けると、本作のヒロインたる存在の逢坂は、周囲からは「手乗りタイガー」として畏怖されている一方で実は不器用である。また、手乗りと称されることからもわかるように体格は小柄であり、そのことに劣等感も抱いている。

また、家庭環境に目を向けると、家族との関係は良好ではなく、高須の住むアパートの隣に一人で居住している。ただし、生活能力はほとんどなく、生活費は父親から振り込まれており、高須とは対照的に家事全般も非常に苦手としている。実際、高須が逢坂の部屋を訪問した際に、シンクの悪臭に衝撃を受ける場面がある。

一方、主人公であるといえる高須竜児(たかす りゅうじ)は母子家庭で生活し、母親はスナックで勤務して日中は寝ている時間が多いこともあり、家事全般をそつなくこなしている。そんな高須と母親は、やがて逢坂と夕食をともにするようになる。高須の母親は逢坂を家族のように扱い、逢坂も高須の母親を「やっちゃん」と呼び慕うようになる。

ここで、逢坂が高須に依存しているという構造に注目することができる。逢坂は父親から住居と毎月の生活費を与えられ、一人で生活しながら高校に通うことはできていたが、家事の能力に劣ることもあり、その生活環境は良いものとは言えなかったところ、家事全般の能力に優れる高須と、自身を家族のように扱う高須の母親と知り合った。また、高須の居住するアパートは逢坂の居住するマンションと隣接しており、逢坂は自室の窓から高須のアパートのベランダと行き来することができたこともあり、高須のアパートで多くの時間を過ごすようになり、高須のアパートで夕食をともにすることも増えていった。逢坂が、一般に親の保護の下で生活し、十分な愛情を受けて然るべき高校生であることも加味すれば、上記のような背景から、自身の実の親を代替しうる存在として、高須や高須の母親に親近感を覚えること、また家事等の生活面で高須に依存することも当然といえる。

逢坂の高須への好意はこの依存が原点にあることもあり、逢坂は本作の終盤までほとんど一貫して高須に依存しているのを見ることができる。この依存は、作中で川嶋が指摘しているように、親子関係に近い依存ということができ、逢坂が高須と恋愛関係になるためにはこの依存から抜け出す必要があった。実際に本作の最終盤で逢坂は見事にこの依存関係を乗り越え、一度高須の下を離れて実の母親のところに行き、親子関係のしがらみを乗り越えた上で卒業式(原作では高校3年生の新学期だという)の日に高須の下に戻ってきたのであった。

そういう意味では、本作は依存できる相手を持たなかった逢坂が、高須という依存先を見つけたことで依存し、恋愛感情の自覚を経て成長した上で依存関係から抜け出す物語と考えることができると思う。

*1:

www.tv-tokyo.co.jp

フォント、シンプルさ、軽さなどに時代を感じる。

*2:

www.jiyu.co.jp

*3:デコ電」や「チョー〇〇」に限って言えば、2008年の時点で徐々に死語になりつつあったかもしれない。

節分に思うこと

2月2日は節分であった。2日が節分になるのは実に124年ぶりのことらしい。

私も歳の数だけ豆を食べ、恵方巻きを食べ、至って普通の節分を過ごした。

ところで、節分の時期になると毎年思い出す昔話があるので書いておこうと思う。

 

 

子供の頃、近所に公園があった。そこそこ大きな公園で、遊具はもちろんだが緑も豊かな公園だった。

小学校からの帰り道には同級生と「3時半に公園に集合」などと約束をして、家に帰ったらランドセルを投げ捨てるように置いて、おやつを頬張りながら自転車を漕いで公園に行き、そのまま日が暮れるまで遊んだ。

西日でだんだん赤く染まる空は、もう間もなく家に帰らなければいけないことをはっきりと伝えてきて、私たちはそれを見るたびに少し悲しくなりながら、残り少ない遊びの時間を必死に充実させようとしていたし、彼らと別れて家に帰る道中、夏の夕日が沈んだ直後、ほんのわずかな時間にだけ見える青色と水色の中間のような色の空や、冬のアスファルトを静かに照らす街灯の明かりは、家で待つ親や食卓に並ぶ温かい夕飯やいつも夕方に放映されていたテレビ番組を想起させ、友達と遊ぶ時間が終わってしまったことの悲しさを家に着くまでの間に徐々に癒してくれた。

ところで、その公園に行くとたいてい、一人の中年男性がいた。彼は公園にいる時はほとんどいつも、入って少し行ったところにあるベンチに陣取っていた。時々私たちが遊んでいるのを横目に眺めつつ、何をするでもなく時間を潰していたのだろう。彼の手にはいつも酒の四角いパックが握られていて、やがて成長してコンビニで同じ商品を見た時に初めてそれが鬼ころしという商品であることを知った。

今だとこういった人間は通報されてツイッターでは不審者情報が流れるのがオチかもしれないが、当時は比較的こういった人間にもおおらかだったのか、少なくとも通報を受けて警官が公園に来て話を聞いているところは見ることがなかった。私たちもまた、彼が危害を加えてくる人間ではないことは雰囲気で理解していた。

 

2月のある日のことだった。いつもの通り学校から帰宅し、そのまま公園に向かうと、公園の入口にパトカーが2台止まっていた。別に悪いことをしていたわけではないが、少し後ろめたいような気持ちになりながら公園に入ると、まず制服の警官の集団が目に入った。

私は祈るような気持ちでそこに近づき、そして、警官の輪の中に彼を見つけてしまった。

時間にして数分ほどだろうか、彼は警官たちと言い争っていたが、やがて半ば強引に手錠をかけられて公園から連れ出されていった。サイレンの音が鳴り出し、すぐに遠ざかっていった。彼がよく座っていたベンチには、やはり鬼ころしのパックだけが残されていた。

翌日は朝礼で担任が「公園に変質者が出たから気をつけるように」という話をしていたし、家に帰れば親はその公園に行くなと言ってきたから、同級生の一人の家で遊ぶことになった。道すがら公園に寄ると鬼ころしのパックがそのままベンチに残っていた。

以来、彼を見た者を私は知らない。子供らしく、警察に逮捕されたのだから刑務所に行ったのだという者もいたが、本当のところは分からない。程なくしてその公園は改修工事が始まり、桜が散り始める頃には遊具もベンチも新しいものに交換されて、私たちは再びその公園で遊ぶようになった。

 

 

以上