この記事について
- 「Babylon Stage 27 誘惑のラビリンス」のセリフ書き起こしを改変したもの
- 過去の記事とは一切関係がない
- 作品自体とも関係がない
「PUI PUI モルカー」というアニメがある。
見里 朝希(みさと ともき)監督の作品で、テレビ東京系の子供向け番組「きんだーてれび」で毎週火曜日朝7:30から放送されている。放送時間を見れば明らかなように、主な視聴者層として子供をターゲットにしているにもかかわらず、Twitterで話題となった。
舞台はモルモットが車になった世界。
癒し系の車“モルカー”。くりっくりな目と大きな丸いお尻、トコトコ走る短い手足。常にとぼけた顔で走り回るモルカー。渋滞しても、前のモルモットのお尻を眺めているだけで癒されるし、ちょっとしたトラブルがあってもモフモフして可愛いから許せてしまう?!
クルマならではの様々なシチュエーションを中心に、癒しあり、友情あり、冒険あり、ハチャメチャアクションもありのモルだくさんアニメーション!(公式サイトより)
実際に見てみると、フェルトで作られたモルカーがストップモーションで動かされており、確かに可愛いし癒される。また、人間を登場させる際には多くの場面で人形を使っているが、これもストップモーションの低いFPSと組み合わさり、人間が「モルカー」と共存する世界を違和感なく描くことに成功しているといえる。
もちろん、例えばモルカーを運転するシーンなどでは実際に生身の人間が演じていることもあるが、その際もFPSを下げるのはもちろん、動きをややオーバーリアクション気味にすることで、セリフが無くともしっかり意味が伝わるし、全体のコミカルな雰囲気を損なわないようにする工夫を見てとることができる。
さらに、放映後にはYouTubeのバンダイチャンネルで翌週月曜日まで配信しているため、朝見る時間がとれなくてもその日の夕方には見ることができるのもありがたい。私も朝はなかなか起きられないので毎回YouTubeで追いかけている。
そんなPUI PUI モルカーの流行に乗っかろうとしたのはいつもの全裸中年男性。子供向けのアニメの何が面白いのかと疑問を抱きながらも視聴したところ、確かに面白い。
しかし、便乗するためのアイデアが一向に浮かばない。全裸中年男性をフェルトで作ってストップモーションでアニメを作ったところで売れるわけがないのは明白。困った全裸中年男性は、とにかく基本に立ち返り、モルカーの面白さを徹底的に分析することに。
まずはモルモットについて資料を集めるべく、久々にパンツを履いて図書館に向かうと職員がマスクの着用を要請。うっかりマスクを忘れてしまったため、やむを得ずパンツをマスク代わりにしたところ下半身が露出してしまい、パンツを被った全裸の男がいると職員に通報されるハプニングもあったが、急いで予備のパンツを履くことで事なきを得た。
早速モルモットについて熱心に調べる中年男性。ここ最近は消費税、酒税、住民税以外は払った記憶がないが、税金の恩恵を実感しながらアイデアを出すべく資料をめくると、モルモットの分類に関する記述を発見。どうやらモルモットは齧歯目の中でもテンジクネズミ科に属するらしい。興味を惹かれた中年男性は、齧歯目に属する代表的な種を探し始めた。モルモット、カピバラ、ネズミ、ビーバー、リス。いずれも既に開拓されてしまっている。小動物の愛らしさ、門歯がチャームポイントのどこか気の抜けたような顔は、なるほどたしかにウケがいい。しかしこれらの動物に手を出したところで所詮は二番煎じ。新たな分野を開拓しなければ、情報が氾濫する現代で生き残ることは到底不可能だ。
何か、何かまだ開拓されていない齧歯目はないか。
さらにページを進める中年男性。ふと、あるページが目に留まった。
モルモットやハムスターに近い外見で、ウケる齧歯類の基本のツボを抑えつつも、大きな耳と毛並み豊かなしっぽで差別化もできる。まさに天啓だった。
ネタが決まればあとは料理するだけだ。PUI PUI モルカーでは渋滞や割り込みなど、車でイライラする出来事が多いので車をモルモットにしたと見里監督がインタビューで答えていたのを思い出し、全裸中年男性がチンチラになったという設定でいくことに。実際のモルモットの鳴き声を当てているPUI PUI モルカーにリスペクトを込めて実際のチンチラの鳴き声を使おうとするも、ここでチンチラが入手困難であることが発覚。しかもフェルト加工の技術もない。
なんとかこのアイデアを形にしたいと頭を抱えて唸る中年男性だったが、しばらくしてはっと顔を上げると、何か妙案を思いついたのか、まるで憑き物が落ちたかのように晴れやかな笑顔で図書館を後にして駆け出した。
数日後、都内某駅前にどこからともなく現れた中年男性。パンツしか履いていないその姿はたちまち衆目を集め、すぐに人だかりができた。突如、中年男性がパンツに手を突っ込む。横から転び出る陰部。ざわめきに気づいて駆けつけた警官に「本当のチンチラを見せていただけ」「これはしっぽだから猥褻物ではない」などと弁解するも、警官は「チンチラはもっと全体的に毛が生えているだろ」「しっぽが前についてるのはけもフレのエロ同人に出てくる竿役だけ」と中年男性が綺麗に剃り上げていることを指摘しつつ一刀両断。あえなく公然猥褻で御用となった。
日本チンチラ協会という団体が存在していて、チラオ君と協子ちゃんというオリジナルキャラクターもいるらしいです。かわいいですね。
以上
前回、前々回とケムリクサの感想などを書いたが、書き残したことを補遺として書いておく。*1
OP、初めて聞いた時アルペジオ思い出してナノっぽいなと思ったらやっぱりナノだった。低めの声が出る女性ボーカルは好きで、多分小さい時にみたプロジェクトXで中島みゆきがOPとED歌ってたの見てた影響だと思う。
りりを「分割」したら出てくるのがあの6人なの、本人が見たら真顔になりそう。多重人格にしても6人は多過ぎるぞ。*2
ケムリクサというタイトルからは容易にタバコが想起されるが*3、実際作中でも一度だけワカバが喫煙するようなシーンがある。その際りりは臭いを嫌がっていることから、ケムリクサはやはりタバコと同じとみることができる。*4そう考えると、作中でケムリクサを使っている3人はタバコの匂いがするのかもしれない。最近はタバコへの風当たりが強くなっているけど、タバコの匂いのする人にはどこか懐かしさを感じるので嫌いじゃないです。
りつさん幸薄そうですき、りんを焚き付けた後になって微妙な好意の芽生えを意識して顔を曇らせるのがめちゃくちゃ似合うキャラだと思う。それでりんりなわかばにキツく当たって後になって1人で後悔してほしいし、それをりなの立場から揃って見て面白がりたい。毎朝起きておはようって言いたいし、頑張っていても結果が出なくてガチで辛い時に愚痴を言ったら努力を見ていてくれて慰められてちょっと泣きそうになりたい。時々微妙に怒られることをやって優しく叱られたいし1回だけマジで怒られることをやってガチギレされて落ち込んで反省したい。ガチギレした後泣いてしまい、泣かせてしまったことにめちゃくちゃ自責の念を感じるのもいいと思う。反省したあとちょっといいことやって褒めて欲しい。
この感じで以前はりんとは比べ物にならないくらいゴリゴリの武闘派なのめちゃくちゃいいと思った。大量の水を手に入れて元気になったりつさんに毎日稽古つけてもらいたい。ちょっとナメてかかったら普通に完膚なきまでに叩きのめされたいし、自分の中にある甘えとか驕りとかを詳らかに指摘されて精神的にもボコボコにされたい。多分素直に弱点を受け入れることができるので毎日コツコツ地道に努力して認められたい。あと月に3回くらいお願いして耳触らせて欲しい。
おばさんじゃんwて言った人間許さないからな。
以上
前回ケムリクサの感想を少し書いたが、今回は分量の都合などで書き切れなかったことを書いておきたいと思う。*1*2
この作品の主人公は誰なのかということを考えてみると、意外と難しい問題である。一見わかばが主人公のようにも見えるが、公式にはりんが「中心的人物」ということになっている。
しかも、ここではわかばは紹介されていない。これを踏まえると、主人公はりんであると見ることもできるだろう。
とすると、りんとわかばの立ち位置は何かという疑問が生じる。
ここでは、まず主人公がりんであるという観点に立って、物語を抽象化することで検討を進めていこうと思う。
本作はりんが姉妹に支えられて成長し、自らの「スキ」を見つけ出す物語と捉えられる。遺された姉妹を守るべく先頭に立って戦うことを決めたりんは、確かにそれ以前、りくが「ビービー泣いていた」と表現していた時よりも強くなったということができるだろう。しかし、その強さは脆いと言わざるを得ない。りんが強くあろうとする理由は明快で、姉妹を守ろうとするためである。これは確かに強力な理由だが、それ以外の理由がないのである。すなわち、何かのきっかけで姉妹が失われれば、もはやりんにとって強くあろうとする理由はない。だからこそ7話で破壊できない壁にぶつかった時は座して死を待つことは考えず、むしろ自らの「本体」を使う、いわば自分の命と引き換えに壁を破壊するという考えを躊躇うことなく実行しようとし、りつが慌てて止めている。これは表面的にはもちろん強い自己犠牲精神ゆえの行動と見ることもできるが、(この時点での)りんの認識では現状では自分でないと壁を破壊することはできず、従って自分が壁を破壊しなければそれは水が尽きて自分のせいで姉妹もやがて死ぬことを意味するからこその行動と見ることもできるし、ここからさらに穿った見方をすると、目の前で自分の姉妹が消えていくのを見るくらいなら先に消えてしまいたいという自己中心的な考えを邪推することも不可能ではない。これこそがりんの強さの裏にある脆さである。
一方で、作中のりんはりつ、りな、わかばと前身を続けるうちに心境に変化が生じている。一言で言えば、しなやかさを獲得しているといえるのである。わかばという存在を得たことにより、そしてわかばに信頼を寄せられるようになり心に余裕ができた結果、当初のどこか刺々しい雰囲気は最終的にはわかばが12話の最後に指摘しているように丸くなっていることは論を俟たないだろう。*3
以上の点を踏まえると、りんは本作において殻を破り成長するヒーローたる存在であったと結論づけることができる。ならば、そのりんと対を為す存在であるわかばはどのような立ち位置にあるか。
単刀直入に言えば、メインヒロインであるということができると思う。
ヒロインはヒーローを支える存在であり、ヒーローと結ばれる存在である。作中のわかばの役割に適合していることがよく分かっていただけると思う。
さらに、りんはりりの記憶の葉を受け継いでいる。この点において、りんは6人の姉妹の中でりりに最も近い存在であるとすることができる。
ここでりりの行動を振り返ると、ワカバとの別れ以降のりりはほぼ一貫してワカバとの再会を目的に行動しているように描かれている。りんとわかばについても、最終話でりんが自ら述べているように同じ構図を見ることができる。
すなわち、本作はりり/りんがワカバ/わかばを一度失い、再び手に入れるまでの物語である。この構図において、りんの行動は失われたものを取り戻すという主体的なものであるのに対し、わかばは一度失われてりんに助けられると極めて受動的である。この点からもりんがヒーローでわかばがヒロインであることが明らかに見て取れると思う。*4
上に書いたように、本作はりんの成長を描いた物語であると抽象化することができる。ここではもう少し掘り下げてみようと思う。
既に述べたように、かつて弱く、姉妹に守られる存在だったりんは、遺された姉妹を守るという必要に迫られて強くなった。一方、その強さは脆さも内包していたのであった。
姉妹を守るためという動機は確かに明確だったが、その動機には姉妹は自分が助けるものだという前提があった。だからこそ、例えば橋でヌシと対峙した時には、りなが陽動するというアイデアはりんではなくわかばから出された。りんにとってりなは守るべき存在であり、主体的に戦闘に参加するということは考えられなかったからである。
このような脆弱な動機に支えられた強さは、やがて打ち砕かれるものである。姉妹を守るということは守るべき存在である姉妹の助けを期待することができなくなることになる。最終盤、巨大な赤い幹との闘いに臨むりんは、当初1人で戦おうとするも歯が立たなかった。結局、りんはわかばを失い、本体を使って戦おうとするが、失敗する。りんにとって姉妹を守ることは何よりも優先されることであり、りんは失意のうちに姉妹のもとに戻ろうとする。
物語はここで、りんがりつとりなからの伝言を受けたことで大きく動き出す。伝言の内容は、「りんの好きなことをしろ」という、奇しくも直前にりんが見た、りりからのメッセージに一致するものだった。そして、りつとりなが戦っていること、2人がりんのために残った貴重なケムリクサを届けたことを知る。ここにきて、りんは「姉妹を頼ること」を思い出して背中を任せ、自分の「好き」のために生きることを思い出して目の前の壁を打ち破るのである。りんは戦う理由として「姉妹を守るため」だけでなく「わかばを取り戻すため」という新たな理由を手に入れたのである。
この二つを思い出したりんは、かつての脆弱さを克服し、より強くなったといえる。姉妹だけでなく自分の「好き」のために生きるからこそ再び走り出し、左腕と左脚を失っても*5、姉妹を頼れるようになったからこそ既に亡くなったと思っていた姉妹に助けられる。りょうがりんの頭を撫で、苦労を労うシーンは象徴的である。当初姉妹のために孤独に戦っていたりんからは考えられないだろう。
姉妹を頼ることで壁を打ち破ることに成功したりんは、かつてのりりの因縁に決着をつけてわかばを取り戻し*6、結果として今まで守ってきたりつとりなも無事であるという未来を勝ち取ったのである。最後にりんが見せた涙はりんの緊張の糸が切れたため、姉妹を守ることができた喜びのためなどといった理由を与えることもできるだろうが、これもかつてりんがすぐに泣いていたことを踏まえると、根本的にはりんが以前のように姉妹を頼れるようになったためと見ることもできる。
以上
ケムリクサというアニメを見た。きっかけは以下のツイートに寄せられたリプライである。*1
12月も終わりだがアマプラで見れるエイニメイション何見ればええんや
— こーむさん (@comb_3) 2020年12月11日
面白かったのだが、ただ見て面白かったという感想だけで終わるのはもったいない気もする。もちろん何も考えず「おもしれぇアニメ」という感想で終わるのもそれはそれで楽しみ方の一つだと思うし、見るたびにあれこれと言語化するのは正直言って面倒でもあり、結局はバランスが重要という当たり障りのない結論に落ち着く。が、それはそれとして、せっかく自分なりに考えたことを言語化してアウトプットしないのはもったいなく感じてしまうのも事実なので、今回は書いておくことにする。
本作の展開の特徴として、世界観に対する明確な説明が与えられていないという点を挙げることができる。作中では線路やビル、遊園地など、かつて人類が生活していたことを示唆する遺構が何度も登場する。この点において、本作はポストアポカリプスに分類することができる。ただし、この分類はかなり抽象的な分類で、いわば「日常系アニメ」とか「アクション映画」といったレベルである。
さて、このようなポストアポカリプスの世界を描写するにあたってはアポカリプス以前あるいはアポカリプス自体についての描写が為されることが基本である。従って、最も基本的なストーリー展開は主人公の日常→何らかの出来事→その後の世界ということになるだろう。*2もちろん、実際にはこれを少しアレンジして、例えばポストアポカリプスの世界の描写→夢の中で以前の平和な日常を回想する→夢の中でアポカリプスとなる出来事が描かれて目が覚めるといった展開などもベタな例といえるだろう。いずれにせよ、世界観の説明をふつう受け手は求めるし、書き手もそれに応える。
その点、本作ではりん、りつ、りならの生きる荒廃した世界の描写も荒廃した理由も、明確な説明が当初から与えられることはない。彼女らは赤い霧に包まれた世界で「虫」と呼ばれるものと戦っているが、ならば赤い霧とは何か、虫とはなにかといった点についてはほとんど説明がない。もっと言えば、タイトルにもなっている「ケムリクサ」とは一体何かということも明確には説明されない。けもフレでも世界観に考察の余地が残る展開だったが、本作ではこのように明確な説明が為されないことに加えて、全体的に夜のように暗い色遣いで描かれていること、正体の知れない虫との戦いが描かれていることなどから、最初の数話ではある種の不気味さを感じ続けることになる。
一方で、説明がないことによるストレスはあまりない。その一つの理由として、わかばの存在を挙げることができるだろう。記憶のない状態でストーリーに組み入れられ、苦労しながらもなんとかやっていくという構図を描くことで、視聴者が置いていかれることなくストーリーを追いかけることができるようになる。これもけもフレによく似た構造ということができるだろう。
また、本作の特徴として「3Dモデル感」とでもいうべきものがあるといえる。なんでもいいのでアニメを見ればわかることだが、キャラクターは画面に描かれていても動いているとは限らない。*3これに対し、我々の体は「セリフ」がない間も動いているのがふつうだ。これは心臓の脈拍や呼吸による体動というだけではなく、例えば人と会話する時も完全に体の動きが止まることはなく、たとえば話に興味が出れば多少前のめりになったり、時々うなずいたりといった動きがある。
おそらく本作は3Dモデルを動かして制作されていると思われるが、いわば現実と創作のあいのこ的な3Dモデルでの表現が独特の雰囲気を醸し出している。本作はアクションシーンも多く描かれているが、こういったシーンは3Dモデルが苦手とするシーンかもしれない。もちろん、こういった表現の特徴も本作の味の一つということができる。
ここまで書くと、本作がひたすら奇を衒うことに力を注いでいるかのように思われるかもしれないが、そんなことはなく、もちろん抑えるべきツボは抑えられている。登場人物もそれぞれキャラクターが立っている。外観や話し方だけでなく、遺された姉妹を守るために強くあらざるを得なかったりん、そのりんを側で見ていて時に後ろめたさを感じながらも自らにできることをこなし、りんをサポートすることに徹するりつ、時に2人を困らせつつも底抜けの明るさで元気付けるりな。3人が相互に支え合うことで最低限安定した関係が維持され、わかばがそこに加わることで物語が前に進み始める。終盤に一気に世界観が説明されて伏線が回収されたのは快感だったし、一度は別れたりょう、りく、りょくとクライマックスで一度限りの共闘をする展開も良かった。一方で、赤い霧が世界に満ちた理由はなんとも悲痛なものだった。善意が結果として悲劇につながるのはやはり辛い。*4
結局、派手な描写や緻密な書き込み、豪華な声優といった要素は無いかもしれないが、要所要所で抑えるべきものはちゃんと抑えた上でたつき監督の色を感じさせる作品だったということができると思う。浅い感想だけど今回はこのへんで終わりにします。
末筆ながら、勧めてくれたフォロワーには改めてこの場で感謝したい。
以上
例年、大晦日や元日には終夜運転や臨時列車が運行される。これはもちろん需要があるからこそ運行するもので、実際元日の0時には(もちろん寺社の規模にもよるが)多くの参拝客が訪れる寺社も少なくない。年末年始のお寺でお手伝いをしたことがあるが、大晦日までに正月飾りを終えて、元日は夜中の2時、3時頃まで起きて参拝客の相手をしていなければならなかった記憶がある。体感では午前1時頃までは結構な数の参拝客があり、そこから徐々に人手が落ち着き、朝になるとまた大量の参拝客で溢れかえるという状態だったと思う。
ところが、今年は新型コロナウイルスの感染拡大、これを踏まえた東京・神奈川・埼玉・千葉の1都3県の知事らが終夜運転や各種臨時列車の運転中止を要請。これをうけ、関東ではJRや私鉄各社が終夜運転や臨時列車等の運行中止を発表。感染拡大はここにも大きな影響を与えたといえるだろう。
年の瀬、都内某所の公園。このニュースに接して、居ても立っても居られない男たちがいた。
男たちの風貌は、異様そのものであった。毛髪の疎らな頭皮。3段はある腹。一見厭世的でありながら何かとんでもないことをしでかしそうな、野心の漏れ出す不気味な表情をしていた。
数年前の機種と思われる、一台のスマートフォンを囲み、ニュースを食い入るように見つめる男たち。
1人の男がワンカップを叩きつけるように置き、立ち上がって言った。
「ワシらの目的はなんじゃ?」
「道に則り義を尽くすことじゃ」
輪の中から声が上がる。
それに呼応するように、賛同する声が輪のあちこちから上がった。
立ち上がった男が手でそれを制し、よく通る声で再び呼びかける。
「それでは、各々大晦日までに顔の利く者に声をかけて人手を集められたい。」
一様に頷き、気合を入れるためか腹の肉をピシャリと叩いて公園を後にする男たち。その顔は、決意に満ちていた。
元日、未明。
都内某所に集う男たちは、すっかり人通りの途絶えた街で熱気を放っていた。
突如、男たちは沿線のフェンスを乗り越え線路に侵入。11人で1組になり、線路を走り出した。
「JRが終夜運転をしないならワシらがやってやる!」
団子になりながら山手線の線路をオイサオイサと闊歩する、異常な風貌の男たちの集団。13分間隔で次々と発車する終夜運転の山手線は夜通し走り続け、始発前に起き出した近隣住民の通報で警察とJRの職員が駆けつけた時には、汗と加齢臭の染み込んだ黄緑色のふんどしだけが大量に残されていたという。
年明け、都内で100人規模のクラスターが発生したというニュースが新聞にひっそりと掲載された。
新年もよろしくお願いいたします。
以上
朝晩の冷え込みが一段と厳しくなった。朝、布団から出るのに15分かかっていたのが、20分、30分と日を追うごとに時間がかかるようになり、駅で電車を待っている間にスマホを触る手はかじかんで動きがぎこちない。12月に入ってようやくコートを出したが、夜は肩をすくめて顔を埋めるようにして家路を急ぐ毎日である。
2020年は激動の年だったといえるだろう。もちろん最大の出来事は新型コロナウイルスの大流行である。
2019年11月に中国・武漢で原因不明の肺炎が発生していることが確認され、2019年の終わりにWHOに報告が入った。当初中国国内で広がっていた感染はしばらくして世界に拡大。人々は特効薬もワクチンもなく、無症状の人間もいるという新型肺炎に恐怖した。
アジア系の人々がヨーロッパやアメリカで迫害されたり、国内では外国人お断りという張り紙を出した店に批判が集まった一方で地方では県外客の入店を拒否する飲食店や県外ナンバーの車に石が投げられた。東京から帰省した人間のいる家が周囲から白い目で見られたといったニュースを今も覚えている人はどれほどいるだろうか。
そして迎えた緊急事態宣言。小池都知事は一時、東京との往来を制限することを示唆しているとも取れる発言をした。私も、遂に自衛隊が利根川と多摩川にかかる橋に爆薬を仕掛け、主要な道路では都県境に警察のバリケードや自衛隊の戦車が展開され、東海道線は川崎と品川で折り返し運転をし、並走する京浜東北線も東京側は蒲田止まりになる中、封鎖が開始される直前に神奈川への脱出を図る都民や神奈川県民で六郷の橋は車道にも人が溢れかえり、未だ渡っている人々もろとも橋が爆破されるのではないかとワクワクしたものだった。
そんなこんなで私も日々自室のパソコンで大学のオンライン授業を受講し、たまに近所を散歩する程度の日々を送っていた。おうち時間という言葉は今年の流行語大賞にもノミネートされている。
夏になっても世界的な流行は収まる気配を見せず、暑い中でもマスクを着けることを余儀なくされた。せっかくの夏休みだが旅行することもできず、図書館で課題と格闘する日々が続いた。
秋になると大学もいよいよ実習を再開することとなり、午前中はオンライン授業、午後はキャンパスで実習という生活スタイルが始まった。やはりキャンパスに来て対面で実習をできるというのはありがたいものだった。
冬になると一度減少に転じた感染者は再び増加に転じ、先日大阪府は「赤信号」を点灯、GOTOキャンペーンの見直しが進むなどしたのは記憶に新しい。
気になるワクチンは官民の様々な努力で急ピッチで開発が進み、国によっては既に接種が開始している。12月18日に国内でもファイザーが申請を行った。国内での接種は順調に行けば2月下旬には医療従事者、3月下旬には高齢者と進んでいく予定であるという。基礎疾患がない若者への接種開始は今しばらく時間がかかるだろう。いずれにせよ、できる限り迅速な接種を期待したい。
2021年はどんな年になるのだろうか。まったく見通しが立たない。来年のことを言うと鬼が笑うというが、今年に限っていえば何も言えないのだから笑われることはあるまい。
執務室で物思いに耽るのは菅総理大臣その人である。12月31日の夜。2020年も残すことあと数時間。
前総理の突然の辞意表明は、この男にとっては僥倖であった。官房長官の地位に甘んじていた今まで、8年もの間トランプ大統領と前総理の蜜月を誰よりも間近で見てきた。
総理大臣の座に就きたいという願望は、いつしかトランプ大統領と濃密な関係を築きたいという思いに変わっていた。その思いは静かに、だが着実に安倍晋三という男への嫉妬という形で菅義偉を支配し始めていた。
2020年9月16日。党内からの圧倒的な支持を背景に総理大臣の指名を勝ち取った菅は、表情こそ平静を装っていたが、喜びに打ち震えていた。思えば長い道のりだった。8年間官房長官として安倍政権を支えつつ、元号発表とパンケーキで人気を獲得し、次期総理への布石を打ってきた。その努力が実ったのである。
あとは日本国の元首として、日米同盟という強固な絆の元、合衆国大統領と結ばれれば自らの願望は叶えられる。
だが、そこに大きな誤算があった。
首相就任を祝うドナルド・トランプからのメッセージは菅の思いに反して冷淡で事務的なものだった。肩透かしを食らい動揺を隠しきれない菅。トランプの表情からは、安倍晋三という男が首相でなくなったことへの落胆と未練がありありと見てとれた。
事務方の事前調整の通りに進んでいく対談は、日米同盟を基軸として両国が今後も様々な面で協力していくことを確認するという、対外的には至極まっとうな結果に終わった。だが、対談を終えた菅は明らかにショックを受けていた。
失意の中行われたアメリカ大統領選。ドナルド・J・トランプという男が最後の根性で安倍晋三という男への義理を果たすのを冷めた目で見る菅は、まるでトランプのことなど気にもしていないとでも言うかのように早々とバイデン候補を大統領選の勝者と認めた。
決して冷たく扱われたことへの意趣返しなどではない。ただひたすら、トランプという男への思いが冷え切っていただけのことであった。菅にはトランプの穴を埋めるようにバイデンと深い関係を結ぼうという気も起きなかった。彼の官房長官時代の言葉を借りれば、粛々と執務を進めていくという決意を、とうに固めていたのだ。
菅の思索はノックの音で唐突に終了した。そばの準備ができたことを告げる秘書の声に、今行くと答え、執務室を離れる。
その夜、永田町では季節外れに咲いた一輪の桜が年を越すことなくひっそりと散ったという。
以上