ケムリクサの感想など

ケムリクサというアニメを見た。きっかけは以下のツイートに寄せられたリプライである。*1

 面白かったのだが、ただ見て面白かったという感想だけで終わるのはもったいない気もする。もちろん何も考えず「おもしれぇアニメ」という感想で終わるのもそれはそれで楽しみ方の一つだと思うし、見るたびにあれこれと言語化するのは正直言って面倒でもあり、結局はバランスが重要という当たり障りのない結論に落ち着く。が、それはそれとして、せっかく自分なりに考えたことを言語化してアウトプットしないのはもったいなく感じてしまうのも事実なので、今回は書いておくことにする。

感想とか

本作の展開の特徴として、世界観に対する明確な説明が与えられていないという点を挙げることができる。作中では線路やビル、遊園地など、かつて人類が生活していたことを示唆する遺構が何度も登場する。この点において、本作はポストアポカリプスに分類することができる。ただし、この分類はかなり抽象的な分類で、いわば「日常系アニメ」とか「アクション映画」といったレベルである

さて、このようなポストアポカリプスの世界を描写するにあたってはアポカリプス以前あるいはアポカリプス自体についての描写が為されることが基本である。従って、最も基本的なストーリー展開は主人公の日常→何らかの出来事→その後の世界ということになるだろう。*2もちろん、実際にはこれを少しアレンジして、例えばポストアポカリプスの世界の描写→夢の中で以前の平和な日常を回想する→夢の中でアポカリプスとなる出来事が描かれて目が覚めるといった展開などもベタな例といえるだろう。いずれにせよ、世界観の説明をふつう受け手は求めるし、書き手もそれに応える。

その点、本作ではりん、りつ、りならの生きる荒廃した世界の描写も荒廃した理由も、明確な説明が当初から与えられることはない。彼女らは赤い霧に包まれた世界で「虫」と呼ばれるものと戦っているが、ならば赤い霧とは何か、虫とはなにかといった点についてはほとんど説明がない。もっと言えば、タイトルにもなっている「ケムリクサ」とは一体何かということも明確には説明されない。けもフレでも世界観に考察の余地が残る展開だったが、本作ではこのように明確な説明が為されないことに加えて、全体的に夜のように暗い色遣いで描かれていること、正体の知れない虫との戦いが描かれていることなどから、最初の数話ではある種の不気味さを感じ続けることになる。

一方で、説明がないことによるストレスはあまりない。その一つの理由として、わかばの存在を挙げることができるだろう。記憶のない状態でストーリーに組み入れられ、苦労しながらもなんとかやっていくという構図を描くことで、視聴者が置いていかれることなくストーリーを追いかけることができるようになる。これもけもフレによく似た構造ということができるだろう。

また、本作の特徴として「3Dモデル感」とでもいうべきものがあるといえる。なんでもいいのでアニメを見ればわかることだが、キャラクターは画面に描かれていても動いているとは限らない。*3これに対し、我々の体は「セリフ」がない間も動いているのがふつうだ。これは心臓の脈拍や呼吸による体動というだけではなく、例えば人と会話する時も完全に体の動きが止まることはなく、たとえば話に興味が出れば多少前のめりになったり、時々うなずいたりといった動きがある。

おそらく本作は3Dモデルを動かして制作されていると思われるが、いわば現実と創作のあいのこ的な3Dモデルでの表現が独特の雰囲気を醸し出している。本作はアクションシーンも多く描かれているが、こういったシーンは3Dモデルが苦手とするシーンかもしれない。もちろん、こういった表現の特徴も本作の味の一つということができる。

ここまで書くと、本作がひたすら奇を衒うことに力を注いでいるかのように思われるかもしれないが、そんなことはなく、もちろん抑えるべきツボは抑えられている。登場人物もそれぞれキャラクターが立っている。外観や話し方だけでなく、遺された姉妹を守るために強くあらざるを得なかったりん、そのりんを側で見ていて時に後ろめたさを感じながらも自らにできることをこなし、りんをサポートすることに徹するりつ、時に2人を困らせつつも底抜けの明るさで元気付けるりな。3人が相互に支え合うことで最低限安定した関係が維持され、わかばがそこに加わることで物語が前に進み始める。終盤に一気に世界観が説明されて伏線が回収されたのは快感だったし、一度は別れたりょう、りく、りょくとクライマックスで一度限りの共闘をする展開も良かった。一方で、赤い霧が世界に満ちた理由はなんとも悲痛なものだった。善意が結果として悲劇につながるのはやはり辛い。*4

結局、派手な描写や緻密な書き込み、豪華な声優といった要素は無いかもしれないが、要所要所で抑えるべきものはちゃんと抑えた上でたつき監督の色を感じさせる作品だったということができると思う。浅い感想だけど今回はこのへんで終わりにします。

末筆ながら、勧めてくれたフォロワーには改めてこの場で感謝したい。

 

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りつ。3話より。



 

以上

*1:言うほど「12月も終わり」ではない。

*2:かなり昔の作品だが、見たことのある作品だと「Threads(スレッズ)」や「The Day After(ザ・デイ・アフター)」なんかは核戦争のシミュレーション的要素もあるのでこの展開に近かった気がする。

*3:余談だがこれは演劇なんかでも同じで、セリフを発している間よりも舞台でセリフの無い時にどう「止まるか」ということの方が難しいという話も聞いたことがある。

*4:最近だと魔女旅の3話Bパートと9話なんかが該当する例だと思う。

首都圏の鉄道各社の大晦日から元日にかけての終夜運転・臨時列車等運行取りやめに関して思うこと

例年、大晦日や元日には終夜運転や臨時列車が運行される。これはもちろん需要があるからこそ運行するもので、実際元日の0時には(もちろん寺社の規模にもよるが)多くの参拝客が訪れる寺社も少なくない。年末年始のお寺でお手伝いをしたことがあるが、大晦日までに正月飾りを終えて、元日は夜中の2時、3時頃まで起きて参拝客の相手をしていなければならなかった記憶がある。体感では午前1時頃までは結構な数の参拝客があり、そこから徐々に人手が落ち着き、朝になるとまた大量の参拝客で溢れかえるという状態だったと思う。

ところが、今年は新型コロナウイルスの感染拡大、これを踏まえた東京・神奈川・埼玉・千葉の1都3県の知事らが終夜運転や各種臨時列車の運転中止を要請。これをうけ、関東ではJRや私鉄各社が終夜運転や臨時列車等の運行中止を発表。感染拡大はここにも大きな影響を与えたといえるだろう。

 

年の瀬、都内某所の公園。このニュースに接して、居ても立っても居られない男たちがいた。

男たちの風貌は、異様そのものであった。毛髪の疎らな頭皮。3段はある腹。一見厭世的でありながら何かとんでもないことをしでかしそうな、野心の漏れ出す不気味な表情をしていた。

数年前の機種と思われる、一台のスマートフォンを囲み、ニュースを食い入るように見つめる男たち。

1人の男がワンカップを叩きつけるように置き、立ち上がって言った。

「ワシらの目的はなんじゃ?」

「道に則り義を尽くすことじゃ」

輪の中から声が上がる。

それに呼応するように、賛同する声が輪のあちこちから上がった。

立ち上がった男が手でそれを制し、よく通る声で再び呼びかける。

「それでは、各々大晦日までに顔の利く者に声をかけて人手を集められたい。」

一様に頷き、気合を入れるためか腹の肉をピシャリと叩いて公園を後にする男たち。その顔は、決意に満ちていた。

 

元日、未明。

都内某所に集う男たちは、すっかり人通りの途絶えた街で熱気を放っていた。

突如、男たちは沿線のフェンスを乗り越え線路に侵入。11人で1組になり、線路を走り出した。

「JRが終夜運転をしないならワシらがやってやる!」

団子になりながら山手線の線路をオイサオイサと闊歩する、異常な風貌の男たちの集団。13分間隔で次々と発車する終夜運転の山手線は夜通し走り続け、始発前に起き出した近隣住民の通報で警察とJRの職員が駆けつけた時には、汗と加齢臭の染み込んだ黄緑色のふんどしだけが大量に残されていたという。

年明け、都内で100人規模のクラスターが発生したというニュースが新聞にひっそりと掲載された。

 

新年もよろしくお願いいたします。

以上

2020年の暮れに思うこと

気がつけば12月。

朝晩の冷え込みが一段と厳しくなった。朝、布団から出るのに15分かかっていたのが、20分、30分と日を追うごとに時間がかかるようになり、駅で電車を待っている間にスマホを触る手はかじかんで動きがぎこちない。12月に入ってようやくコートを出したが、夜は肩をすくめて顔を埋めるようにして家路を急ぐ毎日である。

2020年は激動の年だったといえるだろう。もちろん最大の出来事は新型コロナウイルスの大流行である。

2019年11月に中国・武漢で原因不明の肺炎が発生していることが確認され、2019年の終わりにWHOに報告が入った。当初中国国内で広がっていた感染はしばらくして世界に拡大。人々は特効薬もワクチンもなく、無症状の人間もいるという新型肺炎に恐怖した。

アジア系の人々がヨーロッパやアメリカで迫害されたり、国内では外国人お断りという張り紙を出した店に批判が集まった一方で地方では県外客の入店を拒否する飲食店や県外ナンバーの車に石が投げられた。東京から帰省した人間のいる家が周囲から白い目で見られたといったニュースを今も覚えている人はどれほどいるだろうか。

そして迎えた緊急事態宣言。小池都知事は一時、東京との往来を制限することを示唆しているとも取れる発言をした。私も、遂に自衛隊利根川多摩川にかかる橋に爆薬を仕掛け、主要な道路では都県境に警察のバリケード自衛隊の戦車が展開され、東海道線は川崎と品川で折り返し運転をし、並走する京浜東北線も東京側は蒲田止まりになる中、封鎖が開始される直前に神奈川への脱出を図る都民や神奈川県民で六郷の橋は車道にも人が溢れかえり、未だ渡っている人々もろとも橋が爆破されるのではないかとワクワクしたものだった。

そんなこんなで私も日々自室のパソコンで大学のオンライン授業を受講し、たまに近所を散歩する程度の日々を送っていた。おうち時間という言葉は今年の流行語大賞にもノミネートされている。

夏になっても世界的な流行は収まる気配を見せず、暑い中でもマスクを着けることを余儀なくされた。せっかくの夏休みだが旅行することもできず、図書館で課題と格闘する日々が続いた。

秋になると大学もいよいよ実習を再開することとなり、午前中はオンライン授業、午後はキャンパスで実習という生活スタイルが始まった。やはりキャンパスに来て対面で実習をできるというのはありがたいものだった。

冬になると一度減少に転じた感染者は再び増加に転じ、先日大阪府は「赤信号」を点灯、GOTOキャンペーンの見直しが進むなどしたのは記憶に新しい。

気になるワクチンは官民の様々な努力で急ピッチで開発が進み、国によっては既に接種が開始している。12月18日に国内でもファイザーが申請を行った。国内での接種は順調に行けば2月下旬には医療従事者、3月下旬には高齢者と進んでいく予定であるという。基礎疾患がない若者への接種開始は今しばらく時間がかかるだろう。いずれにせよ、できる限り迅速な接種を期待したい。

www3.nhk.or.jp

2021年はどんな年になるのだろうか。まったく見通しが立たない。来年のことを言うと鬼が笑うというが、今年に限っていえば何も言えないのだから笑われることはあるまい。

 

 

 

それはここ、首相官邸でも同じであった。

執務室で物思いに耽るのは菅総理大臣その人である。12月31日の夜。2020年も残すことあと数時間。

前総理の突然の辞意表明は、この男にとっては僥倖であった。官房長官の地位に甘んじていた今まで、8年もの間トランプ大統領と前総理の蜜月を誰よりも間近で見てきた。

総理大臣の座に就きたいという願望は、いつしかトランプ大統領と濃密な関係を築きたいという思いに変わっていた。その思いは静かに、だが着実に安倍晋三という男への嫉妬という形で菅義偉を支配し始めていた。

2020年9月16日。党内からの圧倒的な支持を背景に総理大臣の指名を勝ち取った菅は、表情こそ平静を装っていたが、喜びに打ち震えていた。思えば長い道のりだった。8年間官房長官として安倍政権を支えつつ、元号発表とパンケーキで人気を獲得し、次期総理への布石を打ってきた。その努力が実ったのである。

あとは日本国の元首として、日米同盟という強固な絆の元、合衆国大統領と結ばれれば自らの願望は叶えられる。

だが、そこに大きな誤算があった。

首相就任を祝うドナルド・トランプからのメッセージは菅の思いに反して冷淡で事務的なものだった。肩透かしを食らい動揺を隠しきれない菅。トランプの表情からは、安倍晋三という男が首相でなくなったことへの落胆と未練がありありと見てとれた。

事務方の事前調整の通りに進んでいく対談は、日米同盟を基軸として両国が今後も様々な面で協力していくことを確認するという、対外的には至極まっとうな結果に終わった。だが、対談を終えた菅は明らかにショックを受けていた。

失意の中行われたアメリカ大統領選。ドナルド・J・トランプという男が最後の根性で安倍晋三という男への義理を果たすのを冷めた目で見る菅は、まるでトランプのことなど気にもしていないとでも言うかのように早々とバイデン候補を大統領選の勝者と認めた。

決して冷たく扱われたことへの意趣返しなどではない。ただひたすら、トランプという男への思いが冷え切っていただけのことであった。菅にはトランプの穴を埋めるようにバイデンと深い関係を結ぼうという気も起きなかった。彼の官房長官時代の言葉を借りれば、粛々と執務を進めていくという決意を、とうに固めていたのだ。

菅の思索はノックの音で唐突に終了した。そばの準備ができたことを告げる秘書の声に、今行くと答え、執務室を離れる。

その夜、永田町では季節外れに咲いた一輪の桜が年を越すことなくひっそりと散ったという。

 

2021年が皆さんにとってなお一層よき年となることをお祈り申し上げます。

以上

クリスマスに思うこと

10月31日にハロウィンが終わってから、街は12月24日に向けてクリスマスムードを少しずつ高めてきた。街路樹にはLEDが巻きつけられ、徐々に寒くなる気温に反比例するように2020年の終わりに向けて気持ちは昂ってくる。12月に入れば商店街のアーケードを歩くとクリスマスソングが繰り返されているし、駅前のような人通りの多い場所にはクリスマスツリーが設置され、我々がクリスマスというイベントに参加しないことを許さないという社会からの強い気概を感じずにはいられない。

12月24日にはケーキやチキンがこれでもかと売り飛ばされ、夜になるとコンビニやケーキ屋の入り口では安っぽいサンタ服を着た店員が声をあげてケースに入った商品を売り切ろうとしている。寒空の下でこんな仕事をさせられる彼らには同情を禁じ得ず、私がケーキやチキンを一個買えばそれだけ彼らの帰宅が早くなるのだろかという思いが頭によぎるが、どうせ私が買ったらその分が店の奥から出てきて補充されるだけだと言い聞かせて、後ろ髪を引かれるようにその場を離れる。

 

 

 

そんな景色を毎年見てきたし、今年も同じようにしてクリスマスの夜は更けていくのだろう、そう思って寒さに縮こまりながら駅から家まで歩いていると後ろから悲鳴が聞こえてきた。

振り返ると、全裸の中年男性がいた。いや、厳密には全裸ではなかった。赤いサンタ帽子はかぶっていた。

彼は叫ぶ。

「マッチ、マッチはいらんかね!よく燃えるマッチはいらんかね!」

それなりに人通りのあるところだったから、すぐに周囲には人だかりができた。ひそひそと話すカップル。笑いながらスマホのカメラを向ける若者の集団。警察に通報しているらしきスーツの男性。なぜ彼は全裸なのか。彼の言うマッチはどこにあるのか。突然の事態に頭が回らなくなり、その場に立ち尽くしてしまった。

ふと、人だかりの中から「マッチなんてねえじゃねえか」とやじが飛んだ。その通りだ。よく言ってくれた。だが、男はその方をキッと睨みつけると、帽子の中からライターを取り出し、野太い叫び声とともに陰毛を一本抜き取った。

彼の上げる声の力強さは、すなわち彼の感じる痛みだった。

「これがワシのマッチじゃ!」

叫んで乱れた息を整えた男はそう叫び、ライターで毛を炙ってみせた。ちりちりと焦げ、消えていく男の陰毛。ライターの火の方がよっぽど明るかった。カメラを向けていた若者の集団から1人が歩み寄り、万札1枚を出して男のマッチを買い上げた。ここで燃やしていってくださいよと笑いながら言う若者。男は手に握られた1万円と自分の股間を何度か交互に見て、自らの股間にライターの火をあてた。歯を食いしばり、顔を真っ赤にして耐える男。大体2000本とすると1本5円ということになるから、まあそんなものだろう。

遠くに聞こえたサイレンが間もなく音量を増し、角を曲がってきたパトカーの赤灯が男の顔を一層赤く照らした。毛布を持った警官が近づいてくるのにあわせて1人、また1人と消えていく野次馬に紛れ、私もその場を後にした。

寒い夜だった。天気予報で夜更け過ぎには雪が降ると言っていたのを思い出した。

 クリスマスには奇跡が起きるという。どんな小さなものでも良い、警察署でクリスマスを迎えるだろう彼にも、どうか奇跡のあらんことを。

 

良いクリスマスを。

以上

ズボンのチャックを全開にして電車に乗っていたらしいという話

先日、電車に乗って移動していたのだが、目的地に着くまでズボンのチャックが全開だったことに気がつかなかった。

このようなことは昔は無かったはずなのだが、最近、特にこの1年で特に目立つように思われる。

私は元々家を出る時はあれこれと確認してからでないと気が済まないタイプで、例えば戸締りはしたか、電気は消したか、携帯電話の充電コードとバッテリーはカバンに入れたか、そして最近はマスクを持っているかなどをしっかり確認してから出ているつもりである。

にも拘らず、ズボンのチャックを閉めるという基本的なことを忘れて外出するという事態は、不可能とまでは言わなくとも、非常に考えにくいと言わざるを得ない。

そもそも、朝起きて寝間着から着替えた際に、ズボンのチャックをちゃんと閉めないということがあるだろうか。

一度試してみて欲しいのだが、ズボンを履いてチャックを閉めないというのは実に気分が悪いというか、落ち着かないものである。

もちろん、一度チャックを閉めても例えばトイレに行けば開くことは事実である。しかしながら、この場合も、仮にチャックを閉めずにトイレを出ればその時点で大変な落ち着きのなさを感じる。これも容易に試すことができるだろう。

従って、朝寝間着から着替えた時点ではチャックはしっかり閉まっていると考えるのが妥当であり、これは家を出る際にも変わらないということができる。

一方、目的地に着いた時点ではチャックは全開であったから、移動中に何らかの理由で閉まった状態から開いた状態になったと考えられる。

以下では、その原因として考えられるものを挙げていき、それぞれの妥当性を検討していく。

チャックが開く原因として考えられるもの

まず、移動の際歩行の振動などが加わって開いてしまったという可能性を考えることができる。たしかに、中途半端に閉まった状態を作り出してズボンの特にチャック周りを様々な方向に引っ張ることで半開状態から全開状態になることは確認できた。

しかしながら、これが原因となるためには半開状態になっていることが前提である。家を出る時点で半開状態になっているとは考えられず、歩行の振動によって全閉状態から半開状態になることも考えにくい。実際、実験によっても全開状態から半開状態にすることはできなかった。

続いて、何者かが私に気づかれないように開けているという可能性を考えることができる。階段や坂道を登る際に、すれ違いざまに手を伸ばしてチャックをおろす等といった方法があるだろう。しかしながら、これも可能性としては困難であると言わざるを得ない。

すれ違いざまに前の人間のチャックをおろすのは極めて難しいからだ。そもそもファスナー部の構造は、ファスナーの金属部分が覆い隠されるようになっている。

そこで、すれ違いざまにチャックをおろそうとすると、すれ違うせいぜい0.1秒程度の間にこの覆い隠されたファスナー部を露出させ、一気におろさなければならない。

この程度の短時間で行うのは自分でも困難であるから、したがって、何者かが開けているという可能性も棄却される。

 

自然に開いたわけでもなく、誰かがすれ違いざまに開けたということでもない——この時点で原因究明は一度行き詰まりを見せていた。しかし、新たな説を思いついたので、ここで初めて紹介したいと思う。その原因とは、

 

 

 

 

 

5Gによる電磁波攻撃である。

 

 

 

 

 

突飛なことを言い出したと思われるかもしれない。電磁波で操られているなどと陰謀論を唱える人を見ると私も頭を抱えたくなるし、最近は5Gとコロナウイルスを結びつけるといった、義務教育の敗北としか形容できない珍説を唱える人も見受けられることを踏まえると、そういった思いも大変納得のいくものである。

しかし、私とて何の根拠もなしにこんなことを言っているのではない。

冷静にファスナーを見つめ直すと、金属素材でできているのだ。5Gも結局は電磁波であり、ファスナーの金属と電磁波が相互作用を引き起こす可能性があるというのは十分に考えられるだろう。

すなわち、何者かが私のズボンのチャックをめがけて5Gの電波を発しており、私はこれによって家を出るときは閉めてあったつもりのチャックがいつの間にか開いているという被害を受けていることになる。

5Gは最近になって普及しはじめたもので、これも最近になって私がこの被害を受け始めたということと矛盾しない。

具体的な攻撃手法やなぜ私が攻撃の対象になっているかについては今後のさらなる調査は必要と思われるが、ひとまず攻撃手段についてはある程度の知見が得られた。

今後はファスナー部にアルミホイルを巻いて外を移動する、常に手でチャックを押さえながら歩く等の方法により防御しつつ、攻撃を行っている主体の特定、反攻などに移行していこうと思う。

 

多分普通に忘れてるだけだと思うんですけど(名推理)

 

以上

故・中曽根康弘元総理に思うこと

故・中曽根康弘元総理の葬儀が10月18日にあったことを覚えているだろうか。費用が1億円にのぼることだとか国立大学に半旗掲揚や職員らの黙祷などで弔意を表明することを求めただとかでまあ反発もあったりしたが、そういったことについては個々人の思想もあるだろうから突っ込まないことにする。

 

重要なのは、我々が中曽根康弘元総理の遺体をこの目で見ていないことだ。

 

シュレディンガーの猫

量子力学に関する有名な思考実験に「シュレディンガーの猫」というものがある。箱の中にいる猫が50%の確率で死ぬようにセッティングされた箱に猫を入れた場合、箱の中の猫は生きている状態と死んでいる状態の重ね合わせで表されるというものである。

我々は中曽根元総理の遺体を見ていない。

ということは、棺の中にいると思われる中曽根元総理は、実際に亡くなっているとは限らないのである。棺を開けて遺体を確認するまでは亡くなっていない状態の中曽根元総理も存在していることになる。

 

というのは、実は正しくない。

 

そもそも、生きている猫と死んでいる猫の重ね合わせというのはナンセンスである。実際には猫というマクロな物体は生きているか死んでいるかのどちらかであり、重ね合わせの話は電子のようなミクロの物体の話である。

 

つまり、中曽根元総理も棺の中で死んでいる状態とそうでない状態の重ね合わせで表されるということはなく、実際には1つの「定まった状態」しかとっていない。

 

 

だが、我々は重要なことを見過ごしている。

 

たしかに中曽根元総理は棺の中で重ね合わせの状態で存在しているということはない。

 

だが、棺の中の「定まった状態」が亡くなった状態であるとは限らないのである。

 

私が思うに、中曽根元総理は今も存命である。

 

ではどこにいるのか。

 

自民党本部の地下である。

 

木を隠すなら森の中、自民党の名士であった中曽根元総理なら自民党本部ということであると思われる。

 

ではなぜ自民党本部の地下にいるのか。

 

中曽根元総理は巨大兵器に改造される手術を受けている最中なのだ。

1億円というのは実のところ、この改造手術に要する費用だったのだ。前例のない手術である。高額になるのも無理はなかろう。

 

 

想定されるシナリオはこうだ。

まず、元総理の訃報をマスコミなどを通して流す。同時に元総理には極秘裏に党本部の地下に入ってもらう。

巨大兵器改造手術の目処が立つまでは麻酔などを活用し時間を稼ぎ、目処がたったところで葬儀の費用として手術に要する費用を明らかにするのだ。

なるほど1億円というのは市民の感覚からすればなかなかに高額な葬儀かもしれない。しかし、そのインパクトによって葬儀がそもそもハッタリであるということは覆い隠される。

国立大学に弔意表明を求めたり会場前に自衛官を整列させたりしていたのもカモフラージュに念を入れるためと考えることができるだろう。

こういった行為が一部の人々からの批判を招くことなど政治家がわからないはずもない。あえてそのような行為に出ることで、隠したい事実からは目を逸させるのだ。

 

そうしてほとぼりが冷めたところで、自民党本部は二つに割れ、巨大兵器に改造された元総理が地下から出てくるのだ。

 

巨大兵器になった中曽根元総理は遠距離からの民営化ビームでHPを削り、接近戦では民営化パンチや民営化キックで的確にとどめをさす。

 

おそらく警察や自衛隊が対応することになるだろうが、彼らも効果的な対処は難しいかもしれない。彼らが民営化されてしまうからだ。民営化された場合の警察や自衛隊の能力は未知数だ。

 

かくして日本全国、さらに全世界が民営化され、巨大兵器となった中曽根元総理は太陽系の惑星、さらには銀河系、そして全宇宙を民営化すべく、宇宙へと飛んでいく。やがて神羅万象が民営化された時、巨大兵器はその役目を終えて停止するのだ。

 

そんなわけないだろ。

中曽根元総理のご冥福をお祈りします。

以上

魔女の旅々について思うこと

白石定規による小説「魔女の旅々」(以下、「魔女旅」と表記する)の主人公「イレイナ」については、本作のアニメ化以降そのわからせに関して多くの議論が交わされてきた。ここでは、現在の主要な学説として4つの説を提示する。すなわち、積極的肯定説、消極的肯定説、消極的否定説、積極的否定説である。以下、それぞれを比較検討していく。

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ベンチに座り食事をしているイレイナ。TVアニメ「魔女の旅々」8話より引用。

1.積極的肯定説

本学説では、わからせについて積極的に行うべきであるとの立場をとる。従来からわからせはいわば「生意気」なキャラクターが対象とされてきた。本説はイレイナを生意気なキャラクターであると捉えることで、わからせに対する積極的な根拠を与えている。しかしながら、本説は提唱当初は一定の支持を集めたものの、現在では特に生意気なキャラクターであると捉えること自体に対する根拠が薄弱であるとの批判が加えられており、主流説とはなっていない。

2.消極的肯定説

本説は、わからせについて積極的な支持を表明するものではないが、一定程度の合理性があるとするものである。積極的肯定説との相違点は、積極的肯定説がイレイナが生意気であるということを根拠にわからせを積極的に肯定するのに対し、本説では生意気であるとの解釈には疑問の余地があるとしながらも、その解釈には一定程度合理性を認める余地があるとしているところにある。本説は、上記の積極的肯定説に対し唱えられた疑問を受けて提唱されたものであり、当初積極的肯定説を支持していた者が批判を受けて本説を支持するようになった例も少なくない。

3.消極的否定説

本説は、わからせについて行うべきではないとの立場をとる。その根拠としては、上記消極的肯定説と同様、わからせに関して必要とされる生意気さが欠けているという点を挙げる。消極的肯定説との違いは、消極的肯定説については生意気であるとの解釈に疑問を呈しつつもその解釈にある程度の合理性を認めているのに対し、本説ではかかる解釈に疑問を呈した上で、疑問がある以上はわからせを行うべきではないという立場をとる点にある。本説も上記の積極的肯定説が批判されるようになってから提唱されたものである。

4.積極的否定説

本説は、わからせについて行ってはならないとの立場をとる。根拠としては消極的否定説と概ね同じであるが、本説と消極的否定説との最大の違いは、消極的否定説はわからせについて行うべきではないとする一方、わからせを行うこと自体を完全に否定するものではないのに対し、本説を採用する場合、完全に否定される。すなわち、「積極的」・「消極的」とはわからせを否定する強さの度合いということができる。本説は上記の三説とは独立に当初より提唱されている一方、余地を残さないという点に対しては近年疑問が呈されている。

以上が主要四学説の概要である。特に消極的肯定説と消極的否定説については、主張する内容が比較的近いこともありしばしば初学者が混同してしまうことがある。最大の違いは、わからせに対して根拠が薄弱な場合に認めるべきか否かという点における主張である。一方、否定説については消極的・積極的の二説がある。これらの違いについては、わからせを認める余地があるかどうかであると考えることができる。

なお、現在では積極的肯定説・積極的否定説には疑問が呈されており、有力説は消極的肯定説・消極的否定説であるが、わからせを認めるにあたっては十分な理由が必要であるとの観点から消極的否定説が通説となりつつある。

 

今季はイレイナさんでいかせていただいております*1。今後とも何卒よろしくお願いいたします。

 

以上

*1:何を?